勝負審判
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勝負審判(しょうぶしんぱん)は、大相撲において、行司とは別に相撲勝負の判定に加わる審判のことである。日本相撲協会相撲規則によると審判委員(しんぱんいいん)と定義されている。
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[編集] 概説
勝負審判は、かつては検査役(けんさやく)と呼ばれた。土俵の東西に各1人、行司溜に2人、正面に1人の合計5人配置され、日本相撲協会審判部所属の年寄が交替で務める。通常審判長は正面の位置に座り、協議の最終決定とその説明を行う。審判委員は現在5系統ある各一門から4人ずつ、理事長に推薦され、任命を受ける。この他の審判部長、同副部長は理事長が直接任命する。部長・副部長は理事または監事が務めるのが原則であり、それ以外の年寄が就任したときは役員待遇となる。
行司の軍配に異議を感じたときは「異議あり」の意思表示(物言い)をして協議を行う。控え力士から物言いがあった場合は、勝負審判はそれを取り上げ協議しなければならない。協議の際には審判長はビデオ室に控える親方の意見も参考にして、土俵上の各委員に伝え、判定も参考にする。判定については審判5人による多数決で、見えていない場合は「見えていない」と表明して、評決に参加しないこともできる。行司はこの評決には参加できない。審判委員は一門の利益代表ではないが、一門の力士が絡んだ判定の場合には意見の強く押し通せる親方の声が通る場合もある。
勝負審判は勝負の判定だけでなく、土俵上の競技進行に目を配り相撲競技規定に違反しないよう注意する。たとえば、仕切りで十分に手を付かず立ち合った場合は勝負審判が相撲をとめることがある。1976年7月場所では、「待った」の応酬で8回も仕切りを長引かせた若三杉と荒勢の対戦の際に、直接土俵にあがって両力士に注意を促したこともあった。水入り後の組み直しには満足するまで行司に注意しなければならない。
相撲競技規定によって勝負審判の装束は紋服白足袋でなければならないとされている。なお、夏場所から一重の羽織に紋付き。名古屋、秋は麻の着物に一重の紋付き姿である。
また、行司溜赤房下(東寄り)の審判が時計係となる。時計係審判は呼出と行司に制限時間による「待ったなし」を伝える役目と全体の進行を見極め制限時間を調節する役目をもっている。また白房下は一種の「予備役」で他の審判に故障が起きた場合はその位置に回ることになっている。
本場所の場合、勝負審判は4班に分かれて行い、交替時期は以下の通りとなる。
- 十両土俵入り前の取組で4分割(概ね前相撲~序ノ口、序二段、三段目、幕下で分けられる)
- 十両土俵入り
- 中入り
- 幕内の取組の約半分を消化した時点
本場所の取組編成、場所後の番付編成は、審判部の所管である。横綱・大関昇進のときには、審判部長が理事会の招集を要請することが、昇進の前提となっている。
[編集] 過去
現在のように、審判が土俵下から判定をみるようになったのは、1920年代のおわりごろであり、それ以前は土俵の周囲の四本柱(現在の房の位置にあった)のところに座っていた。
また、1950年代までは検査役は選挙で選ばれ、力士の有資格者も投票した。元横綱の太刀山峯右エ門が引退して年寄東関を襲名したが、まもなく廃業したのは、検査役の選挙で落選したことが一因であった。
1968年の機構改革によって、検査役の名称が審判委員に改められ、このとき、部長・副部長以外の審判には部屋もち親方を充てないこととした。この規定は1978年まで続いた。
[編集] 勝負審判委員一覧
(2007年3月場所現在)
[編集] 審判部長
- 放駒輝門 (元大関魁傑)
[編集] 審判部副部長
[編集] 出羽海一門
[編集] 立浪一門
[編集] 二所ノ関一門
[編集] 高砂一門
[編集] 時津風一門
[編集] アマチュア相撲
アマチュア相撲では、この役割を担当するものを、副審と呼ぶ。副審は正面・向正面・東・西の四人が配置につく。
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