古井喜実
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古井 喜實(ふるい よしみ、1903年1月4日 - 1995年2月3日)は、日本の政治家、官僚。厚生大臣・法務大臣を歴任する。
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[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
鳥取県八頭郡国中村(現・八頭町)に、郡役所で書記を務めていた古井實壽の二男として生まれる。旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法学部英法科に入学する。なお中学時代の同期生に政治学者の矢部貞治がいる。1925年内務省に入省。
埼玉県、東京府等での勤務を経て本省に戻り、1937年に地方局地方監査課長となる。ここからの昇進のスピードは異例というほど速かった。地方局行政課長、大臣官房文書課長、そして大臣官房人事課長と兼任で1941年から約1年半東条英機も含む4人の大臣の秘書官を務めた後、1942年地方局長、1943年茨城県知事(この頃、当時関東国税局長の池田勇人、側近の大平正芳と知り合う)、1944年本省警保局長、1945年6月愛知県知事を経て、1945年8月に内相山崎巌の要請を受け、内務次官に就任する。この時古井は弱冠42歳の若さであった。同年10月の東久邇宮稔彦内閣総辞職まで2ヶ月間務めた。戦後は公職追放に遭い、弁護士を開業する。
[編集] 政界へ
1952年、鳥取全県区(当時)から改進党公認で総選挙に立候補し、当選を果たす。以後当選11回。この時、古井が内務省地方局行政課長時代に知遇を得ていた松村謙三の応援を受け、以後松村に師事する。保守合同後は石田博英らとともに石橋湛山政権樹立に向け、裏方で多数派工作を行う。また1959年、松村に伴われて中国を訪問し、それ以来日中友好促進への関心を強めていった。1960年には自民党内安保批判派を代表して岸信介首相に対して2時間半にわたって質問を行い(以後本会議、予算委員会での質問を封じられることとなる)、5月19日の強行採決には欠席した。
1960年、第二次池田内閣において厚生大臣として初入閣する。厚相としての功績には、(1)省内および医師会の反対を押し切っての結核治療新薬カナマイシンの保険採用、(2)病院経営改善への積極的指導による病院ストの沈静化、(3) 自民党内の反対を抑えての、小児麻痺予防のためのソ連からの生ワクチン緊急輸入がある。生ワクチン輸入については後に映画「われ一粒の種なれど」(監督松山善三)の主題となった。
[編集] 「親中派」という試練
佐藤栄作政権発足以後、親米・親台湾に傾斜する佐藤への批判を強め、党内で孤立を深めていった。1967年、LT貿易の5年間の期限が切れると、古井は田川誠一、岡崎嘉平太とともに翌1968年訪中し、覚書協定を交わした(この協定に基づく貿易を「覚書貿易」と呼ぶ)。期限は1年間で、古井はその後1969年、1970年、1971年と訪中を重ね、協定継続に務める。この間、自民党内のタカ派を中心に「屈辱外交」「土下座外交」と罵声を浴びせられ、また中国側からも「佐藤の弁護人」「佐藤と結託」という言葉を投げつけられながら(古井も松村と同様、中国側の佐藤批判に調子を合わせるようなことは決してしなかった)、ともすれば崩れ落ちそうになる日中間の細く脆いパイプを、ほとんど孤軍奮闘で繋ぎ止めていた。
やがて、時代の潮目は大きく変わり、1972年田中角栄政権のもとで日中国交正常化交渉においては田川とともに事前交渉を行い、日中共同声明の調印に貢献した。古井は大功労者として報いられるはずであったが、待っていたのは1972年総選挙での落選であった。地元への利益誘導が、鳥取においても選挙で幅を利かす時代になっていた。古井落選については「外交は票にならないのか?」と、一部マスメディアを賑わせた。
[編集] 金権批判演説と田中角栄擁護
落選後4年間、高齢の身を押して草の根選挙運動に走り回り、1976年にはトップ当選で返り咲く。1978年第1次大平内閣の法務大臣に就任する。しかしながら、1979年総選挙では2位当選、1980年には4位(最下位)当選と、地盤侵食の流れには抗い難くなった。
1981年9月28日、衆議院永年勤続表彰における謝辞演説で、古井は「いまや、民主政治のよって立つ選挙は、体力にあらずんば金力の戦いとなり、政治は、富の神の支配する領域と化した感があります」と述べた、率直な金権政治批判に、翌日の新聞各紙がこぞって大きく取り上げるなど、広く反響を呼んだ。
ところが翌1982年、金権政治の象徴ともいうべき田中角栄について、総合雑誌上に「総理大臣は直接的に民間航空行政を指揮監督する権限はなく、従ってロッキード社から金銭を授受したとしても収賄罪には当たらない」という、田中擁護とも受け取れる趣旨の論文を発表し(『中央公論』1982年6月号、「ロッキード裁判に思う-政治倫理と法治主義の問題」)、世間を当惑させた。なぜこのような物議を醸す議論を敢えて世に問うたのか、古井の伝記を書いた政治社会学者の居安正はいくつか推測を挙げているが、その一つとして、マスコミの扇情主義報道に付和雷同的に追従する国民に対する批判があるのではないかと指摘している。
なるほど、論文中の次の一節に目を通せば頷けないこともない。「国民各自は、今日、自主的に物事を考え、自らの信念に基づいて行動しているかどうか…かつて日中国交回復前、われわれ積極論者を国賊と非難した人々が、やがて豹変して昔からの友好人士のように振舞った実例を見て知っている」
「政治とは犠牲である」を座右の銘としてきた孤高の老政治家の、心の奥底に溜まっていたものが噴出しているかのようである。古井にしてみれば、「演説」は既存の政界に対する、また「論文」は国民に対しての、一種の総括として通低していたのではないだろうか。
1983年に政界引退。鳥取県知事であった平林鴻三に地盤を譲り、その後は日中友好会館館長を務めた。1982年勲一等旭日大綬章、1993年東京都名誉都民。
[編集] 関連文献
居安正『ある保守政治家 古井喜實の軌跡』(御茶の水書房、1987年)(ISBN 4275007204)
[編集] 外部リンク
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