吉崎御坊
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吉崎御坊(よしざきごぼう)は、越前国吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。現在は周辺に浄土真宗本願寺派(西本願寺)・真宗大谷派(東本願寺)の別院、本願寺派の吉崎寺と大谷派の願慶寺などの寺院がある。また、記念館・資料館もある。
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[編集] 起源
1471年(文明3年7月下旬)、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前国吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していた事、また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。
この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には「御文(おふみ)」(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。
- 1474年(文明6年)3月28日、火災で焼失するも、その後再建。
- 1475年(文明7年)8月21日、戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去する。
- 1506年(永正3年)、朝倉氏が加賀国より越前国に侵攻した一向一揆勢を退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる。
[編集] 別院の建立
1746年(延享3年)に西別院(本願寺派)が、翌年の1747年(延享4年)には東別院(大谷派)が吉崎山のふもとに建立される。
[編集] 吉崎山
吉崎山(御山)とは、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた天然の要害で、海抜33m程、面積約2万平方メートルの小高い丘である。この山の頂に吉崎御坊があった。1975年には国の史跡に指定され、公園として整備されている。現在は東西両派共有の地である。