経覚
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経覚(きょうかく/ぎょうかく、応永2年(1395年)-文明5年8月27日(1473年9月19日))は、室町時代の法相宗の僧侶。父は関白九条経教、母は浄土真宗本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めた事でも知られている。諡号は後五大院。
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[編集] 生涯
経覚の母親(法号・正林)が本願寺の出である事は記録などにも残されているが、具体的な身元は明らかになっていない。ただし、経覚の生年から5世綽如の娘であったとするのが一般的であり、これに基づけば蓮如の父である存如は経覚の従兄弟であったことになる。当時本願寺は零落状態にあり、摂家である九条家の保護を受けるためにその家司的な事も行っており、経覚の母も九条家出仕中に経教の手が付いたと考えられている。
幼くして父を失った事もあり13歳で興福寺大乗院の考円の元で出家する。4年後には大乗院門跡となった。
応永33年2月7日(1426年)に興福寺別当に任じられ、以後永享3年(1431年)・寛正2年(1461年)・文明元年(1469年)にも別当に補任されている。
中央とも繋がりが深く、将軍足利義教ら室町幕府要人とも親交が深かったが、永享10年(1438年)に義教と対立して尋尊に門跡を譲らされて一旦は法寿院へ引退に追い込まれる。だが、嘉吉の変で義教が暗殺されると、大和国の越智氏・古市氏らの支援を受けて已心寺に入り、活動を再開する。だが、これに反対する成身院光宣とその一族である筒井氏がこれに抵抗し、嘉吉4年(1444年)に大和の国人を結集させて筒井順永の討伐を命じるが敗れ、逆に奈良の支配を目指す筒井順永の攻撃を受ける。これに対して大乗院境内の山に鬼薗山城を築いて籠城するが、翌年には同城も陥落して安位寺に逃れた。だが、その後は再び復権して興福寺別当に還任され、大和一国に大きな影響力を有した。また、宝徳元年(1449年)に兄の九条満家(満教)が没すると、その遺児である政忠・政基兄弟の後見も務めた。迎福寺で没する。
[編集] 蓮如との関係
経覚は宗派こそ違ったものの、母方の実家である本願寺との関係が深く、7世存如が死去した際には「50年来の知己で無双の恩人あった」と述べて本願寺に弔問の使者を送り、後日自身で大谷本願寺を弔問している。
存如の庶子として生まれた蓮如は幼い頃に経覚の元に預けられ、彼の元で修学しており、その後も師弟として互いの大事には支援しあう仲であった。また、大乗院の荘園で経覚の支配下にあった越前国河口庄細呂木郷(細呂宜郷とも)の代官に本願寺の末寺である和田本覚寺の住持蓮光を任じていた。
寛正の法難で延暦寺からの迫害を受けて本願寺存亡の危機に直面した蓮如が真っ先に相談に訪れたのも経覚の元であった。経覚は蓮光に管理を任せていた河口庄の吉崎へ移り再起を図る事を提案する。越前一帯には浄土真宗やそれ以外の浄土教系の諸宗派の信者が多く住んでいるために蓮如の布教には最適である事、逆に経覚の立場からしてもその頃越前国の守護代であった朝倉氏と甲斐氏の争いの影響で両氏による荘園の横領が続いており、信頼のおける甥分である蓮如に河口庄の代官的な役割を期待していたとされる。
蓮如は経覚の助言と蓮光の支援を受けて吉崎に吉崎御坊を建立してここで布教活動を開始する。一方、河口庄の年貢が経覚の元に無事に届くようにという配慮も欠かす事はなかった。本願寺が北陸地方において一大勢力に成長するのは経覚の死後程無くの事であった。
[編集] 経覚私要鈔
経覚私要鈔(きょうがくしようしょう・経覚私要抄・安位寺殿御自記)は、経覚が記した日記である。原本82冊が国立公文書館(内閣文庫)に所蔵(ただし、1冊は尋尊の日記が誤って伝えられたものと判明している)され、平成15年(2003年)には重要文化財に指定された。写本も宮内庁書陵部、東京大学史料編纂所、東北大学に所蔵されている。
応永22年(1415年)から文明4年(1472年)までの分が現存しており(一部散逸)、日記部分の「日次記」と重要事件について特に記した「別記」に分けられている。興福寺内の寺務・寺領支配から大和国人衆の動向、京都の中央政界や親戚である九条家や本願寺の動きなどが詳細に記述されており、室町時代の政治・経済・社会・宗教に関する貴重な史料である。