吉田城 (三河国)
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鉄櫓(模擬再建) | |
通称 |
吉祥郭、峯野城、歯雑城 |
城郭構造 |
半円郭式平城 |
天守構造 |
なし |
築城主 |
牧野古白 |
築城年 |
永正2年(1505年)? |
主な改修者 |
池田照政(池田輝政) |
主な城主 |
池田氏、酒井氏、牧野氏、松平氏 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
遺構 |
石垣、土塁、堀、模擬鉄櫓 |
位置 |
吉田城(よしだじょう)は、三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった城。
戦国時代の16世紀初頭にその前身が築城され、16世紀末に大改築が行われた。
江戸時代には吉田藩の政庁としての役割を果たした。城の別名としては、築城当初には「今橋城(いまばしじょう)」、明治維新後には「豊橋城(とよはしじょう)」ともいわれた。
目次 |
[編集] 歴史
築城当時は、今橋城と名付けられた。戦国末期に築城された。東三河の戦略拠点の1つ。現存する城跡は近世城郭で、豊川を後背地とする背水の陣となるため、徳川家康の本城になることはなく、家臣の酒井忠次が守った。対武田氏戦線では、設楽郡の長篠城・野田城、遠州の浜松城・二俣城・高天神城が牙城となった。
永正2年(1505年)、三河国宝飯郡から進出してきた牧野氏一族である牧野古白によって築城されたといわれる。『牛窪記』などによると、牧野、真木、岩瀬、野瀬などの人々によって、築城されたとある。但し野瀬については、今橋城築城後に、足利将軍家の番衆の一人を、牧野古白に添えたものであるとする文献もある。但しこの項については、諸説がある。
西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平氏の東三河進出を妨げるため、今川氏親の指示があったとされる。
翌永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。今橋城の近くの二連木城(豊橋市仁連木町)や半島の田原城に拠点を持つ戸田氏、離散した牧野氏など城主が次々入れ替わった。
大永2年(1522年)、城主であった牧野信成によって吉田城と改められた。享禄2年(1529年)、西三河から松平清康が進出し吉田城を攻略。戸田氏まで屈服させて、三河支配権を、ほぼ確立させた。しかし、天文4年(1535年)清康が横死し松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となるが、天文6年(1537年)には牧野氏を追った戸田宣成が城主となった。天文15年(1546年)、今川氏の人質として駿府へ向かう松平竹千代(徳川家康)を田原城主戸田康光が強奪し織田氏に売り渡すなど今川氏に敵対したため、今川氏は竹千代奪回作戦の前哨戦として戸田氏を攻めて吉田城を陥落させ、これを管理下に置いた。
今川氏は駿河から城代を派遣し、東三河の国衆にも城代を補佐させて統治協力を強いた。永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで討たれると支配力が低下、次第に歯止めが利かなくなる。永禄8年(1565年)には、松平家康によって攻略され、今川氏は三河支配権を喪失する。家康は家臣の酒井忠次を城代に任命、吉田城を中心に東三河の諸豪族を統率させた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田輝政(吉田城主時代は照政)が東三河4郡を統べる15万2千石の城主となった。
輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋(豊橋)の架け替えを行った。整備は11年間にわたって行われたが完了せず、関ヶ原の戦いの翌年慶長6年(1601年)に輝政は播磨国・姫路に移封された。江戸時代に入ると、吉田城に吉田藩の藩庁が置かれ、深溝松平氏や水野氏・小笠原氏など3万から8万石の譜代大名が頻繁に入れ替わった。最後に入ったのは、長沢松平大河内家(大河内氏)である。
明治維新後、松平伊豆守信古(まつだいらいずのかみのぶひさ)公(後の大河内信古子爵)が明治2年(1869年)に版籍奉還し、明治政府下の豊橋城(豊橋藩)となり、明治4年(1871年)、敷地は兵部省の管轄となった。明治6年(1873年)、失火により多くの建物が焼失した。また、城趾内に名古屋鎮台の豊橋分営所が設置され、明治8年(1875年)には大日本帝国陸軍第18連隊が置かれた。
太平洋戦争後、三の丸内側は一部を除き豊橋公園として整備され、本丸には1954年(昭和29年)に隅櫓(鉄櫓)が模擬再建された。また美術館やスポーツ施設、文化会館などが整備されている。また、豊橋市役所も三の丸に立地している。
[編集] 立地、構造
この吉田城は豊川と朝倉川合流地点に立地。現在に至るまで23度にわたって発掘調査が行われている。その成果によると、戦国期の吉田城は土盛と素掘りの堀による簡素な構造だったと考えられる。池田輝政による改築以降、北側に川を背にして本丸があり、それを囲むように二の丸、三の丸、武家屋敷が囲むという半円郭式の平城であった。ただし、掘割や土塁は戦国期の吉田城と平行線状に並んでおり、縄張りは戦国期のものをある程度踏襲されていることが知れる。
本丸は北側の川に面し、切り立った石垣が組まれていた。南側は囲むように石垣と隅櫓で構築され、その外側には空堀が掘られていた。天守は無く、隅櫓の一つである鉄櫓が天守の代わりをしていたと考えられている。本丸御殿が江戸時代の深溝松平氏が納めた当時に建設されたが、宝永4年(1707年)の宝永地震で崩壊し、以後再建されなかった。再建鉄櫓を支える石垣は池田輝政当時のものといわれる。その他の部分の石垣については、慶長期の名古屋城築城の際に余った石垣を転用している部分が見受けられ、石垣の中には天下普請(多くの大名が築城に動員されたこと)であったことを示す各大名家の家紋などが刻まれているものがある。
二の丸は土塁で囲まれており、二の丸御殿や弾薬庫があった。また二の丸の北、本丸の東側には細長い形状の金柑丸があった。牧野古白による築城当時の本丸はこのあたりにあったといわれている。
三の丸も土塁で囲まれ、米蔵や土蔵、長屋などがあり、その外側は武家屋敷が広がっていた。場外とは総堀で囲われており、当初空堀であったが、承応3年(1654年)、譜代の小笠原忠知によって向山大池(豊橋市向山町)が築かれ、水を引いた。大手門は札木町(豊橋市札木町)付近にあった。
[編集] 交通機関
豊橋駅前から市内電車で豊橋公園前駅もしくは市役所前駅で下車(約5分)。豊橋駅から徒歩でも20分程度で到着する。