名古屋城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋にあった城郭。尾張徳川家17代の居城。金鯱城、金城ともいう。城址は、現在の愛知県名古屋市中区・北区の名城公園。
伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、大坂城、熊本城とともに日本三名城に並び称される名城である。天守に取り付けられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。城地は織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の故地で、この城はのちの名古屋城二の丸の位置にあったとされる。
|
|
天守 | |
通称 |
金鯱城、金城 |
城郭構造 |
梯郭式平城 |
天守構造 |
層塔連結式 |
築城主 |
徳川家康 |
築城年 |
1609年 |
主な改修者 |
名古屋城再建委員会 |
主な城主 |
尾張徳川氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存櫓・門、庭園 |
位置 |
目次 |
[編集] 構造
[編集] 縄張
名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。したがって、姫路城のような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者や現代の城郭ファンにとって魅力的な縄張とは見られていない。例えば、ある軍学書は「縄張宜しからず」と酷評している。しかし、名古屋城が築城された江戸時代初期は攻城戦術・技術が成熟しきっていた時期である。その時点で、徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城を、あえてこのような縄張にしたことを考慮すべきである。当時の名古屋城の築城思想が、篭城戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、あるべき篭城戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、縄張の良否を簡単に断言することはできない。例えば、名古屋城は大砲を使用する戦闘を考慮し、攻め込まれた場合は寡勢での防衛を可能とし、また攻め込む際には大兵の駐屯を可能にする縄張りであるという説もある。
名古屋城の城地は、濃尾平野に連なる庄内川の形作った平野に向かって突き出した名古屋台地の西北端に位置し、北に濃尾平野を一望のもとに監視できる軍事的な要地にあたる。古くは西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地であった。伊勢湾に面した港である南の熱田神宮門前町からは台地の西端に沿って堀川が掘削され、築城物資の輸送と名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。これらのことからわかるように、名古屋城は西に向かって防御性を高めており、大坂城の豊臣氏などの西国大名が東海道を江戸に向かって攻め上ることがあった時、これを阻止する役割が期待されていた。
城の構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。本丸の三つの虎口のうち南の大手口と二の丸側の搦手口の2箇所には、堀の内側に二重の城門で構成される桝形があり、堀の外側に大きな馬出しがあって入口を二重に固めていた。桝形内では通路を屈曲させ、周りを多聞櫓で囲んで通過を困難にしている。外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、本丸に背を向けないと通れないようになっていた(西丸側の小石垣は撤去され堀も埋められている)。馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない優れた構造になっている。また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪と呼ばれる城と城下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積をもつはずだったが、大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。これは名古屋築城の目的を如実に物語っている。
[編集] 天守
天守は本丸の北西隅に位置する。江戸時代初期の城郭の代表的なもののひとつで、大天守と小天守を連結した形になっており、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、有名な金鯱(金のしゃちほこ)が載せられた。
大天守は五層五階、地下一階のつくりで、その高さは55.6m(石垣19.5m、本体36.1m)と、18階建ての高層建築に相当した。高さこそ江戸城や徳川再築の大坂城の天守に及ばないが、延べ床面積ではこのふたつの天守を凌駕する4,424.5㎡を誇った。その内部には1,759畳の大京間畳(長辺が七尺)が敷き詰められていたという。その構造は層塔型と呼ばれ、下方に天守の台座となる入母屋造の屋根を持たないものである。よって、天守自体のバランスを保つため、天守一階の平面がほぼ正方形になること、高い石垣を精度よく積み上げることなどが要求され、江戸時代初期までに発達した築城技術により可能となった構造であった。
小天守は二層二階、地下一階で、大天守への関門の役割があった。平面は長方形で外見は控えめなつくりとなっており、大天守の影で地味な存在ではあるが、実は他の城の三層天守よりもはるかに大きい。
天守は慶長17年(1612年)に完成し、以来333年間、名古屋にその威容を見せ続けた。途中、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けた。推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えた。しかし、昭和20年(1945年)の空襲で焼夷弾が命中して大火災を起こし、石垣だけが残った。
天守再建を開始したのは昭和32年(1957年)。名古屋市制70周年記念事業と位置づけられた。このとき、大天守を木造とするか否かで議論があったようだが、結局石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造の大天守を載せることとした。石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮したためである。起工式は昭和33年(1958年)6月13日、竣工式は昭和34年(1959年)10月1日であった。その6日前に伊勢湾台風が襲来し、名古屋市をはじめとした東海地方全域に大きな被害を与えている。再建大天守は五層七階、内部にはエレベータも設置している。外観はほぼ忠実に再現しているが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなものとしたので、下層の窓と比較すると若干違和感がある。
[編集] 本丸の櫓、門
本丸はほぼ正方形をしており、北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられた。門は南に南御門(表門)、東に東御門、北に不明(あかず)御門の3つがあった。あとは、長大な多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。
隅櫓はすべて二層三階建てで、その規模は他城の天守級を誇った。また、外観意匠も相違させ、今日でいうデザインを重視した設計も行われている。現存しているのは、南東の辰巳(たつみ)隅櫓、南西の未申(ひつじさる)隅櫓で、北東の丑寅(うしとら)隅櫓は戦災で失われ櫓台のみ残っている。
南御門と東御門は、どちらも桝形・二重城門構造を採用し、空堀に渡した通路(土橋)の外側には巨大な馬出しが設けてあった。他の郭から本丸に侵入するには、次のように馬出しと桝形を通過しなければならない。
- まず馬出しへの土橋を渡り、石塁(*)にぶつかって横に折れ、
- 本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、
- 馬出し内をUターンするように進んで本丸への土橋を渡り、
- 二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、
- 一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。
馬出しと桝形の周囲は多聞櫓で囲まれているので、侵入者は180度の範囲から攻撃を受けるような構造になっていた(*南御門の馬出し内西側の石塁は撤去され、その外側の堀は埋められて平地になっている)。現存しているのは南二之門である。不明御門は埋門(うずみもん)形式の非常口で、戦災で焼失した。
多聞櫓は単なる城壁ではなく、連続櫓と考えるべき構造を持っていた。いわば点の隅櫓に対して線の多聞櫓である。奥行は5m強もあり、内部には武具類や非常食を収納し、十分な防御能力を持っていた。残念ながら多聞櫓はすべて濃尾地震で破損し、取り壊された。
[編集] 本丸御殿
通常は城主(藩主)が居住する御殿であり、実際に築城直後はそうであったが、元和6年(1620年)将軍上洛時の御成専用とすることに決し、以後藩主は二の丸に居住するようになった。しかし、実際に本丸御殿を使った将軍は秀忠と家光のみで、その後はまったく使われず、尾張藩士により警備と手入れが行われるだけであった。
御成専用とするだけあって、本丸御殿は当時の二条城に匹敵するほどの豪華さで知られた。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。
これら殿舎等はすべて第二次世界大戦で失われたが、内部にあった障壁画の一部は隅櫓などに収められていて無事だった。それらは重要文化財に指定され、再建天守に保存されている。また後述するように、現在本丸御殿の再建計画がスタートしている。
[編集] 二の丸
二の丸は本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二の丸に将軍の御座所を設けた。家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折には二の丸に滞在していた。しかし、本丸御殿を御成専用にするため、二の丸にあった平岩親吉(慶長16年(1611年)没)の屋敷を改修して、元和3年(1618年)二の丸御殿とした。それ以後、二の丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。
二の丸の防御施設としては、北東、南西、南東に「の字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二の丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三の丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・二重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二の丸の外周は、基本的に土塀が立ち並んでいた。
二の丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二の丸庭園があった。この二の丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。
二の丸御殿は二の丸の北側に位置し、南側には馬場が整備されていた。現在馬場跡に愛知県体育館が建っている。
現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二の丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。また、二の丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城として知られる那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。
[編集] 西丸
西丸(にしのまる)は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三の丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、南西隅部に御勘定多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。郭内には多くの米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。
西丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは明治43年(1910年)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称したが、焼夷弾で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西丸には名古屋城管理事務所と天然記念物カヤの木がある。
[編集] 御深井丸
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西丸とも狭い通路でつながっていた。
櫓は北西隅と北東西寄に2棟あり、うち北西隅にある戌亥隅櫓が現存している。三階櫓と称され、三層三階のその規模は弘前城天守や丸亀城天守も上回る大きさである。清洲櫓とも呼ばれるのが、これは慶長16年(1611年)に清洲城小天守を移築したものと伝えられるためである。解体修理の際には、移築の痕跡も見つかっているため、実際に清洲城の小天守を移築した可能性もある。
本丸の後衛を担う郭であり、当初は郭の外側すべてに多聞櫓を建造する計画であったが、途中で計画が変更され、櫓以外の郭周囲は土塀を巡らせただけで、元和の偃武により工事が中断し、そのまま江戸時代を過ごした。郭内は各種の蔵が建てられたと思われる。
また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現在でも残っている。名古屋市内に現存する最古の煉瓦作りと言われる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたと言われる。1997年に国の登録有形文化財に登録された。
[編集] 三の丸
三の丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地を有していた。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下(はばした)御門(埋門)、南面西側に御園(みその)御門、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二の丸横に清水御門である。それぞれ桝形を有していた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。
三の丸内の建造物はすべて取り壊されているが、一宮市の妙興寺総門が清水御門を移築したものであるらしい。名古屋東照宮、三の丸天王社は三の丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、天王社は那古野神社となっている。
明治以降は官庁街として発展した。また三の丸外の名古屋城外堀の一部は、明治後期から昭和後期にかけて、名鉄瀬戸線の線路敷として利用された(後述)。
現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎が建てられ、愛知県行政の中枢地域である。
[編集] 現存する遺構
第二次世界大戦前は、旧国宝31件をはじめ、質量ともに世界遺産の姫路城を上回る、多数の建造物が城内を埋め尽くしていたが、昭和20年(1945年)5月14日8時20分頃、米陸軍のB-29による焼夷弾により天守を含むほとんどを焼失した。
現在残る尾張藩時代の建物は6棟(本丸辰巳隅櫓、同未申隅櫓、同南二之門、旧二の丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二の丸西鉄門二之門、御深井(おふけ)丸戌亥隅櫓)のみ。すべて重要文化財である。また、昭和27年(1952年)3月29日に城域内が国の特別史跡に指定された。
[編集] 歴史
[編集] 戦国時代
16世紀の前半に今川氏親が尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。天文元年(1532年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。
信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、弘治元年(1555年)、信長が清須城に本拠を移したため、廃城とされた。
[編集] 江戸時代
清洲城(この頃清須から清洲と書かれるようになった)は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は慶長14年(1609年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。慶長15年(1610年)、西国諸大名による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は加藤清正、作事奉行は小堀政一、大工頭は中井正清であった。縄張は篠山城に酷似しており、藤堂高虎によるといわれる。天守台石垣は加藤清正が築いた。慶長17年(1612年)に大天守が完成する。
清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した慶長17年(1612年)頃から徳川義直が名古屋城に移った元和2年(1616年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。
寛永11年(1634年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。
[編集] 近代
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。
明治5年(1872年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。明治6年(1873年)には名古屋鎮台となり、明治21年(1888年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。
明治24年(1891年)に、濃尾大地震により、西南隅櫓などが破壊。さらに昭和20年(1945年)5月14日の名古屋空襲の際、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などに焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失してしまった。
戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされ、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が現存する。一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残る。天守も昭和34年(1959年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。
本丸御殿も天守に続いての復元が目指されたが実現の道のりは遠く、バブル崩壊等の資金難で一時は危機に瀕したこともあった。市民ボランティア団体・本丸御殿フォーラムが1994年5月14日に設立され、平成14年(2002年)から再建基金の寄付を募った。平成22年(2010年)に第一期工事のうちの玄関部分の復元が目指されている。合わせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時進行で進められる予定である。
[編集] 名古屋城の金鯱
[編集] 金鯱に関するエピソード
名古屋と名古屋城のシンボルである金鯱には、いろいろなエピソードがある。
- 初めて作られた金鯱は、一対で慶長大判1940枚分の金を使用していた。重量にして約320kgである。ところが、その後の藩財政の悪化により、都合3回にわたって金箔の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。
- 金鯱は海を渡ったことがある。明治4年(1871年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会に出品された。金鯱が大天守に戻ったのは明治12年(1879年)2月である。
- 金鯱の鱗の盗難事件は何度も発生している。江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説が有名であるが、金助は実在の泥棒である。明治以降では3回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰して売却しようとして逮捕されている。ただし、3回目の事件のときは下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。
- 焼夷弾で焼失した金鯱の残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、昭和42年(1967年)に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。
- 現在の金鯱は大阪造幣局で復元された。一対に使用された金の重量は88kgである。
[編集] 金鯱の外部施設展示
名古屋城の金鯱が平成17年(2005年)3月24日に開会した愛・地球博の開会式典で展示された。これまでにも名古屋城の博覧会開催により、天守から地上に降ろして名城公園内の博物館に展示された事はあった(今回の場合は愛・地球博に併せて開催された新世紀・名古屋城博のための展示だった)が、外部施設での展示は1959年に再建されてからは初めてのことだった。
また前日の3月23日は名古屋市内16区を雄・雌に分けて周り、一般市民にお披露目し中区栄では2体揃ってのパレードを行った。
その時の公開された各区の場所は以下のとおり。
[編集] お堀電車
名古屋城三の丸を囲む外堀の底には、明治後期から昭和後期にかけて電車が走っており、「お堀電車」として親しまれた。
大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋官庁街への乗り入れを図り、明治44年(1911年)5月23日に土居下~大曽根間、10月1日に堀川~土居下間を開業させた。土居下駅は三の丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、中央本線四ツ谷駅付近などで見られるが、堀を原形に保ったまま線路を敷いた例は珍しい。そのかわり、堀の角部で半径60mの急曲線があったり、複線分の幅員がないところに単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を用いたりと、線路敷設には苦労の跡が見られた。
瀬戸電気鉄道は、昭和14年(1939年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となり、外堀内の区間は長らく「お堀(濠)電車」として親しまれたが、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された昭和51年(1976年)2月15日をもって堀川~土居下間が休廃止となった。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイントの跡の煉瓦によるアーチ、大津町駅ホームへの階段などを観察することができる。
[編集] 名古屋城夏まつり
毎年、7月末から8月初めにかけて行われる夏祭りである。城内で、薪能や楽市・楽座などが催される。
昭和59年(1984年)から毎年東海ラジオで公開生放送されている。
平成17年(2005年)は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。
平成18年(2006年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。
[編集] 交通アクセス
- 鉄道
- 名古屋市営地下鉄名城線市役所駅下車 7番出口より徒歩5分
- 名古屋市営地下鉄鶴舞線浅間町駅下車 1番出口より徒歩15分
- 名鉄瀬戸線東大手駅下車 徒歩15分
- 路線バス
- 自動車
- 駐車場520台
- 30分毎に180円
[編集] 名古屋城が登場する作品
- 「モスラ対ゴジラ」
- 「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」
- 「ゴジラVSモスラ」
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本の城 | 名古屋市の重要文化財 | 名勝 | 特別史跡 | 名古屋市の史跡 | 名古屋市の建築物・観光名所 | 名古屋市の歴史 | 中区 (名古屋市) | 北区 (名古屋市)