善光寺白馬電鉄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
種類 | 株式会社 |
本社所在地 | 380-0934 長野県長野市中御所1-20-1 |
電話番号 | 026-227-2270(代表) |
設立 | 1929年(昭和4年)11月10日 |
業種 | 陸運業 |
事業内容 | 運送事業 他 |
代表者 | 代表取締役社長 松本清 |
資本金 | 1億5000万円(2006年3月31日現在) |
売上高 | 11億8200万円(2005年12月期) |
外部リンク | http://www.zenpaku.com/index.html |
善光寺白馬電鉄株式会社(ぜんこうじはくばでんてつかぶしきがいしゃ)は、長野県長野市中御所1丁目20番1号に本社を置く総合物流企業である。
社名が示すように、もとは鉄道事業者であり、長野市内で鉄道路線を運営していた。太平洋戦争中の企業整備により1944年に路線が休止(1969年に正式廃止)され、鉄道事業から撤退したが、企業自体は運送事業者として現在も存続している。
目次 |
[編集] 事業
運送業および引越運送業を主要な業務とする。そのほか倉庫業、自動車整備業、流通加工業なども行っている。
[編集] 支店・営業所
松本支店・南営業所・上田営業所
[編集] 鉄道事業
鉄道そのものの計画は、1919年(大正8年)に長野商工会議所が中心に進めた、長野市と白馬岳山麓の北城(ほくじょう)村(現北安曇郡白馬村)を結ぶ鬼無里鉄道の計画が始まりである。しかし、第一次世界大戦後の不況により、計画は一旦頓挫してしまう。その後昭和初期になって、再び計画は持ち上がり、鉄道大臣小川平吉の尽力もあって、鉄道敷設免許が下りたため、会社が設立された。当初は社名通りに全線電化とする計画であったが、昭和初期の不況により資金が思うように集まらず、動力をガソリンに変更したうえで1936年に一部区間が開業した。しかし計画区間の2割程度を開業した時点で戦時下の企業整備により休止された。「電鉄」を名乗っていたが、電化は最後まで実現しなかった。
開業に当たり新製されたのは、当時佐久鉄道や飯山鉄道などが導入していたのと同系の日本車両製造製ガソリンカーのゼ100形2両と貨車2両で、気動車には社名から「ゼ」という他例の無い形式称号が与えられていた。
これらは戦時中の金属類回収令に伴う不要不急線撤去の一環として休止となる際に、車両統制会の仲介で江若鉄道、上田丸子電鉄、そして福島交通に譲渡されたが、皮肉な事に江若を経て野上電鉄へ譲渡された1両を含め気動車2両は共に電装され、本鉄道時代よりも長期に渡って電車として使用された。
戦後も長い間休止のまま据え置かれ、本来の目的地であった白馬村や長野市など関係自治体による復活運動も行われた。その中で、民間資本による全線開通は難しいとして長野市や財界から、国鉄による開通を目指した信越西線計画が出現するが、実現しなかった(信越西線は、1964年7月に長野市、財界を中心に信越西線建設期成同盟会が設置され、鉄道審議会に陳情を行ったが、国鉄の財政悪化を理由に予定線昇格されず、そのまま消滅する。なおルート構想は、信越本線三才駅を起点とし、戸隠~鬼無里を経て白馬に向かうようになっていた)。一方、これと並行して長野県企業局による裾花ダムの建設が決定し、終点裾花口付近の路盤やトンネルが水没する事になった。このため、白馬村までの到達はおろか休止線の復活さえ困難となり、しかも同ダムの建設を推進する立場にあった長野市が、立場上鉄道の復活を断念せざるを得なくなった。そして、本鉄道は実営業期間わずか7年のまま、復活することなく1969年に正式に廃止された。
地元住民からは善白(ぜんぱく)の愛称で親しまれていた。
[編集] 路線データ
※休止直前のデータ。
[編集] 歴史
- 1921年3月 - 鬼無里鉄道の名で鉄道敷設免許申請(不況による資金難で交付されず)
- 1926年1月23日 - 長北電気鉄道の名で長野市と北城村(現:白馬村)を結ぶ36.2kmの鉄道敷設免許申請。
- 1927年11月16日 - 敷設免許交付。
- 1929年11月10日 - 善光寺白馬電鉄として会社設立。
- 1930年11月8日 - 長野~鬼無里間の工事認可(12月4日起工式)
- 1936年11月22日 - 南長野~善光寺温泉東口(仮駅)間(5.8km)開通。
- 1936年12月26日 - 善光寺温泉東口~善光寺温泉間(0.6km)開通。善光寺温泉東口駅廃止。
- 1942年12月17日 - 善光寺温泉~裾花口間(1.0km)開通。
- 1944年1月10日 - 全線休止。
- 1969年7月9日 - 全線廃止。(廃止後、運送事業に切り替えた)
[編集] 駅一覧
※休止直前のデータ。