土肥実平
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土肥 実平(といの さねひら、生年不詳 - 没年不詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。弟に土屋宗遠がいる。通称:次郎。正式な名のりは平実平(たいら・の・さねひら)。
実平は相模国の有力豪族中村氏の出で、足柄郡土肥郷を本拠とし早川庄預所を勤めた。現在のJR湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。
治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると嫡男の遠平ら中村一族を率いて参じている。石橋山の戦いで敗北すると、軍勢を分散させ七~八騎で頼朝と共に落ちのびた。頼朝主従が「しとどの窟」に隠れていたのを梶原景時が見逃した逸話はこの時のこと。この後、実平の用意で真鶴から房総半島の安房国へ脱出した。
頼朝は千葉氏、上総氏らの参陣をえて反攻。関東から大庭景親ら平家勢力を駆逐しすることに成功する。以後、実平は富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐などに従軍。
寿永3年(1184年)1月、源義仲討伐に従軍し(宇治川の戦い)、合戦後、大江山に派遣され京の入口を守った。同年2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦う。三草山の戦い後、義経は一万騎を二手に分け、実平は七千余騎を引きつれ、一の谷の西の手に進んだ。合戦後、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた。山陽道を守り、源範頼の進軍を支援する。
建久2年(1191年)7月18日、厩の上棟(『吾妻鏡』)の記述を最後に、実平は史料から姿を消している。
法名:實渓大眞 また、通玄院仁山義公 墓所:神奈川県湯河原町の万年山城願寺