大弐三位
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大弐三位(だいにのさんみ、長保元年(999年)頃? -永保二年(1082年)頃?)は、平安中期の女流歌人。藤原宣孝の女、母は紫式部。本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ・けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれる。
長保三年(1001年)3歳ごろ父と死別。長和六年(1017年)18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕。当時は祖父の任国の越後国と官名をとって越後弁と呼ばれた。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。その後、関白藤原道兼の次男兼隆と結婚、一女をもうけた。万寿二年(1025年)、親仁親王(後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。
長暦元年(1037年)までの間に東宮権大進高階成章と再婚、同二年(1038年)為家を生む。天喜二年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに従三位(じゅさんみ)に昇叙、夫成章も大宰大弐に就任した。大弐三位はこの官位と夫の官名に由来する。
この間、長元元年(1028年)「上東門院菊合」、永承四年(1049年)「内裏歌合」、同五年(1050年)「祐子内親王家歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。承暦二年(1078年)には80歳近い高齢で「内裏後番歌合」に出席し、子為家の代詠をつとめている。
家集『大弐三位集』(一名『藤三位集』)がある。『後拾遺和歌集』に37首入集。また、「小倉百人一首」に「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ 人を忘れやはする」が採用されている。