宅見勝
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宅見 勝(たくみ まさる、1936年6月 - 1997年8月28日)は、ヤクザ、指定暴力団・五代目山口組若頭、宅見組初代組長、旧福井組若頭。
[編集] 山口組直参以前
1936年、神戸市生田区出身。幼少の頃に三重県伊勢市に移住し、少年期の ほとんどを当地で過ごした。中学時代は学力優秀で進学を勧められたが、家庭の事情から断念し大阪で就職した。大阪ではミナミの不良グループの仲間入りをして1959年頃 博徒でもある土井組の傘下組織の若衆となり、翌年には若頭に就任した。
しかし所属する組は1962年に警察の取り締まりを受け解散。その後、当時ミナミで大きな勢力を持っていた南道会(会長・藤村唯夫(三代目山口組舎弟)系の福井組(組長・福井英夫)の若衆となった。1966年には その実力を認められ福井組の若頭補佐となり、翌1967年、三重県鳥羽市を本拠に宅見組を創設した。
1970年に福井組若頭に昇格したのを機に大阪に本拠を移し、そのころ三代目山口組若頭・山本健一(山健組組長)と親しくなった。1975年の「大阪戦争」では武闘派として活躍するなど貢献が認められ、1977年には三代目山口組組長・田岡一雄から盃をもらい山口組直参に昇格した。
[編集] 山口組最高幹部時代
経済活動や外交・交渉にも卓越した手腕を発揮し、1984年の「竹中正久四代目」誕生の際には対立する山広派(組長代行・山本 広の派閥)の切り崩しに貢献した。四代目体制では若頭補佐の要職に就き山一抗争の陣頭指揮に当たった。
1989年に山健組2代目の渡辺芳則が五代目山口組組長に就任すると自らも若頭に就き総本部長・岸本才三(岸本組組長)と共に五代目体制の屋台骨を支えた。また1991年に「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(暴力団対策法)が制定されると、これを違憲として法廷闘争を起こし山口組の最高幹部として陳述するなどした。これらの出来事で分かるように法律に精通するだけでなく経済にも精通し、経済ヤクザとして新しい形のシノギである様々な新事業に進出し、新世代のヤクザとしても高名であった。
暴対法が施行された上に組織犯罪処罰法の制定までもが画策される状況下、他組織との平和共存路線を強力に推し進めたが、このことが武力による拡大を志向する勢力に反感を蓄積させていった。山口組の親戚団体となっていた四代目会津小鉄の本拠地である京都への進出を積極的に行っていた中野会の会長・中野太郎(山口組若頭補佐)が1996年に会津小鉄系組員に襲撃された事件の際、利害調整不足のまま中野抜きで事態の収拾を図ったことで、中野との亀裂は決定的なものとなった。そのことが原因となり翌1997年8月28日午後、総本部での用事を終え、新神戸駅に隣接するホテルのロビーで総本部長・岸本、副本部長・野上哲男(二代目吉川組組長)の両最高幹部と談笑していたところを、中野会系 加藤総業本部長・鳥屋原精輝(とりやばら きよてる)らに銃撃され、61歳で死亡した。
この宅見の死によって、以後 山口組の若頭の座は2005年5月に弘田組組長・司 忍(二代目弘道会総裁。後の六代目山口組組長)が就任するまで8年間に渡り空席となった。なお実行犯とされる鳥屋原は2006年6月30日に神戸市東灘区・六甲アイランドの貸し倉庫で遺体となって発見された。
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