宇高連絡船
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![サンポート高松の一角にある「讃岐丸」の錨のモニュメント 中央奥は高松駅](../../../upload/thumb/a/a7/Sanuki-maru_anchor_Takamatsu.jpg/240px-Sanuki-maru_anchor_Takamatsu.jpg)
宇高連絡船(うこうれんらくせん)は、日本国有鉄道(国鉄)およびこれを継承した四国旅客鉄道(JR四国)により、岡山県玉野市の宇野線宇野駅と香川県高松市の予讃線・高徳線高松駅との間を運航していた鉄道連絡船。
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[編集] 概要
山陽本線を建設した山陽鉄道は、予讃線・土讃線の一部を建設した讃岐鉄道を1904年に買収した時点でこの航路の計画を立てていたが、実現したのは同社が鉄道国有法に基づき国有化された後の、宇野線が完成した時となった。
1910年に航路が開設され、以後、本州と四国を結ぶ幹線交通路として重用されてきた。1972年からはホバークラフトによる「急行便」も運航されていた。1985年年末~1986年年始と、1987年9月からは高速艇が急行便として臨時運航した。
1988年(昭和63年)4月10日、本四備讃線(瀬戸大橋線)が開業したことから、前日限りで普通便とホーバー便の運行は廃止され、宇野周辺の利用者のために残された高速艇の運航も1990年(平成2年)3月に休止、翌年廃止となった。
なお、瀬戸大橋の通行料が高額であるなどの事情から、宇高連絡船と並行して運行していた民間航路(四国フェリー・宇高国道フェリー)の宇高航路は、21世紀初頭の現在でもトラックドライバーの利用が多く、引き続き存続している。強風などで瀬戸大橋線瀬戸大橋橋上(児島駅~宇多津駅)に通行規制がかかった場合は、これらのフェリーによる代行輸送契約が結ばれている。
[編集] 沿革
- 1910年(明治43年)6月12日 宇野線岡山~宇野が開通し、岡山~高松の航路と尾道~多度津の航路を統合して宇野~高松航路を開設。
- 1921年(大正10年)10月10日 貨車の鉄道車両航送が始まる。
- 1950年(昭和25年)10月1日 大阪駅~松山駅・須崎駅間に直通準急列車を設定。宇高連絡船では客車を積み込んで航送。乗客が乗った客車の車両航送が開始された。
- 1955年(昭和30年)5月11日 濃霧の中、紫雲丸と第三宇高丸が衝突して前者が沈没し168人死亡する事故が発生(紫雲丸事故・国鉄戦後五大事故の一つ)。この事故をきっかけに、本四架橋(本州四国連絡橋)の構想が具現化していった。また、この事故をきっかけに乗客が乗った客車の航送は中止。
- 1972年(昭和47年)11月8日 ホバークラフト就航。
- 1985年(昭和60年)12月~1986年(昭和61年)1月 年末年始に高速艇「ひかり2号」が臨時便で運航される。
- 1987年(昭和62年)9月 高速艇「しおかぜ」臨時便で就航。
- 1988年(昭和63年)4月9日 瀬戸大橋線開業で、列車で本州・四国を移動できるようになったため、鉄道連絡船・ホバークラフト廃止。高速艇「しおかぜ」は存続。
- 1990年(平成2年)3月31日 高速艇「しおかぜ」の運航を休止。
- 1991年(平成3年)3月16日 高速艇廃止。名実ともに81年の歴史に幕を閉じる。
[編集] 就航船
- 客船
- 玉藻丸・児島丸・水島丸・南海丸・山陽丸
- 鉄道航送船(貨物船)
- 第一宇高丸・第二宇高丸・第三宇高丸・第一~第五関門丸・第一讃岐丸(初代讃岐丸)
- 鉄道航送船(客貨船)
- 紫雲丸(瀬戸丸)・鷲羽丸・眉山丸・讃岐丸(後の第一讃岐丸)
- 伊予丸・土佐丸・阿波丸・讃岐丸(2代目)
- ホバークラフト
- かもめ・とびうお
- 高速艇
- しおかぜ
[編集] 宇高連絡船の逸話
- 連絡船の最盛期、着岸港である宇野駅と高松駅では、連絡船接続列車に乗る(座席を確保する)ために、船から降りる一部乗客が列車まで凄まじいスタートダッシュをかけることが有名だった。将棋倒しで死亡したり重傷を負った者もいたほどで、半ば「命がけの競争」であった。宇高連絡船廃止後もJRから琴電へ乗り換えるためにダッシュしている光景が未だに見られる(現在の駅舎と琴電の駅舎とは建て替え前よりも遠くなっているため)。
- 前述の紫雲丸沈没事故では、修学旅行の学生に多数の死者を生じさせたことで、四国内の人々に大きな衝撃を与えた。以降数年間、香川県内の学校の修学旅行の目的地は、宇高航路を利用しない四国内に変更されたほどである。この惨事は、瀬戸大橋・児島(岡山県)~坂出(香川県)ルート実現の大きな原動力となった。
- 宇高連絡船の追憶として、連絡船デッキで販売されていた讃岐うどんがしばしば挙げられる。四国へ向かう連絡船上で供されるうどんは、イリコかサバぶしの類による庶民的なだし汁に、製麺後時間が経ち過ぎてやや味の落ちた麺、という上等とは言い難いものであったが、香川県民をはじめとする四国の人々に帰郷を実感させる味であった。
- 高松駅構内には当時の連絡船のうどんを参考に味の再現を図った「連絡船うどん」の店があるが、麺はJR四国グループの製麺/うどん店「めりけんや」製である。連絡船に麺を納入していた製麺所は現存するが、そちらの麺は用いていない。高松駅名物として定着しており、旅行客や地元客からの人気は今も高い。
[編集] 参考文献
- 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』(成山堂書店、2000年) ISBN 4425923316