荒城の月
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『荒城の月』 (こうじょう・の・つき) は、土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲による歌曲。哀切をおびたメロディーと歌詞が特徴。七五調の歌詞(今様形式)と西洋音楽のメロディが融合した名曲。
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[編集] 旋律
明治34年(1901年)に中学校(旧制中学校)唱歌の懸賞の応募作品として、瀧廉太郎が作曲した。
原曲は無伴奏の歌曲であったが、大正6年(1917年)に山田耕筰によりピアノ・パートが補われ、その際、旋律にも修正が加えられた。山田耕筰版では、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音さげてある。
山田耕筰のピアノ伴奏を用いながら、オリジナルの旋律を歌った例として、米良美一の録音が挙げられる。
当時は著作権という概念はないため、これを教科書にする際に山田版以上に大幅に編曲するなど改作されたものが広まった。
[編集] 歌詞
詩は、東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したもの。原題は『荒城月』である。詩集への収録はない。
- 春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い) でし 昔の光今いずこ - 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿いし 昔の光今いずこ - 今荒城の夜半(よわ)の月 変わらぬ光誰(た)がためぞ
垣に残るはただ葛(かずら) 松に歌う(うとう)はただ嵐 - 天上影は変わらねど 栄枯(えいこ)は移る世の姿
映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月
- 大変美しい起承転結の構成である。
- 「千代」とは非常に長い年月を意味し、「千代木」(ちよき)が松の異名であることから、松には長い年月が刻み込まれていると考えられている。その松の枝を分けて昔の「光」を探す情景は、憂いがあって美しい。なお、この詩では「千代」を「ちよ」とよんでいるが、伊達政宗が「千代」(せんだい)を「仙台」(仙臺)と書き改め、現在の仙台市につながっているため、仙台出身の土井晩翠が「仙台」を「千代」と書き、「ちよ」と読みを替えて「仙台」のことを暗に示しているとも考えられる。その場合、「千代の松」は「仙台(城)の松」となるが、詩全体の中では「千代」は「長い年月」の意味ととった方がよい。因みに、「仙台」とは「仙人の住む高台」を意味し、伊達政宗が住む山城の仙台城(青葉城)を示している。仙台城という城の名前から城下町も仙台となった。
- 雁は、主に東北地方や北陸地方で越冬をする渡り鳥。
- 歌詞二番「秋陣営の…」は上杉謙信作と伝えられる「霜は軍営に満ちて秋気清し数行の過雁月三更」をふまえたものと思われる。
[編集] その他
土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、そして滝廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。
大分県では、竹田市の豊後竹田駅において、列車が到着する際の接近メロディとして歌詞付きでこの曲が流れる。大分放送のテレビの放送終了の時にも、開局(?)以来長年この曲のメロディがインストルメンタルで流れている。また、この歌に因んで名付けられた和菓子「荒城の月」も生産・販売されている。
かつて宮城県では、仙台駅前の百貨店丸光(現在はさくら野百貨店)屋上に設置されたオルゴール(正確にはサイレン)から、この歌のメロディが10:00・正午(12:00)・15:00・17:00に鳴り響いていた。
ロシア正教会の『トラデショナル・ミサ』の中で、山田耕作編曲版が賛美歌として歌われている事が確認されている。また、スコーピオンズが日本公演でこの曲を歌うことでも知られる(スコーピオンズは滝廉太郎版のメロディーで歌唱・演奏しているが、観客は山田耕筰版のメロディーで歌っているのが面白い)。