高台院
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高台院(こうだいいん、生年諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、豊臣秀吉の正室。
- 北政所。尾張国の杉原助左衛門定利の次女として生まれる。杉原(木下)家定は兄、秀吉の養子となり、後に小早川家を継いだ小早川秀秋は甥。
- 生年は天文11年(1542年)、天文17年(1548年)、天文18年(1549年)など諸説ある。幼名は諸説あり。名は一般的に「ねね」とされるが、秀吉や高台院の署名などにおね、祢 (ね)、寧(ねい)と言う表記があるため、「おね」と呼ばれることも多い(後述参照)。
- 甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、寧子と記されている。従一位を授かった際の位記には、豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの(諱を参照)。法名は高台院湖月心公。
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[編集] 生涯
叔母の嫁ぎ先、尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野又右衛門長勝の養女となる。永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日(秀吉妹・朝日姫とは同名の別人)の反対を押し切って嫁ぐ。その後、夫の立身出世を糟糠の妻として支えた。二人の間には子供が無かったので、秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。
天正10年(1582年)の本能寺の変の際には、近江長浜城に居り、一時難を避けて領内の大吉寺に身を寄せた。幸い、間もなく山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破ったので長浜に帰り秀吉と再会する。その後、秀吉と共に大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い、従三位に叙せられ、北政所(きたのまんどころ)と称した。
天正16年(1588年)4月14日、後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の4月19日には従一位に昇叙した。
慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が没すると落飾し、高台院と称した。慶長4年(1599年)、徳川家康に西の丸を明け渡すと、古くから仕えてきた孝蔵主をはじめとするわずかな女中達を連れ京都三本木の屋敷に隠棲した。慶長10年(1605年)秀吉の冥福を祈るために家康に図り、京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。
寛永元年(1624年)9月6日に死去。年齢については先述のように諸説あり、享年は76、77、83などの説がある。
[編集] 人物
- 政略結婚が普通であった当時、秀吉とは珍しい恋愛結婚だったと言われている。資料によると二人は「野合で結ばれた」と書かれており、これは縁談などが全くない恋愛だったことを意味している。もっとも、当時の秀吉の身分はまだ非常に低く、ねねも浅野家の養女に過ぎなかったためある程度の自由恋愛も可能だったと思われる。それでも結婚時点での身分は、ねねの方がずっと上であった。
- 秀吉が浮気し、悋気(りんき)した際には、信長から「藤吉郎がそなたに対し色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あの『ハゲネズミ(=秀吉)』がそなたほど素晴らしい女性を他に得られるはずはないのだから、そなたも奥方らしく堂々として、嫉妬などせぬように…(大意)」と、ねねのやきもちをたしなめつつも彼女を励ます内容の書状を贈られている。
- ねねは正室であったが子供に恵まれなかったので、一時秀吉に辛く当てられていた事があった。その事を知った織田信長が秀吉を呼び出し厳しく叱責し、ねねには励ましの手紙を送った。
- 豊臣政権においては「糟糠の妻」の功績から大きな発言力を持っており、ルイス・フロイスは「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」とまで賞賛している。
- 甥の小早川秀秋を可愛がっていないことをたしなめる秀吉からの手紙が現存している。
- 従来の通説や歴史小説では、関ヶ原合戦では東軍(いわゆる武断派)のために動いたとされてきていたが、近年の研究では石田三成らと親しく(三成の三女・辰を養女としている)、関ヶ原時もどちらかといえば西軍よりだった可能性が指摘されている。
[編集] 「ねね」か「ね(おね)」か
名前については従前から「ねね」と呼ばれてきたが、昭和に入って日本史学者の桑田忠親が北政所の自筆消息(手紙)の自署が「ね」一文字であることを理由に、彼女の名は本来は「ね」(通称では接頭辞「於(お)」をつけて「おね」)であり、「ねね」は「太閤記」などによる誤記である、という説を唱えた。これに対して女性名の研究者としても名高い角田文衛は以下のように反論した。
- 当時の女性が自筆の消息に名の頭文字を一字だけ署名するのは普通に行われたことである。いわゆる細川ガラシャ夫人(明智たま)の消息の上書の署名には「た」一字が書かれており、徳川秀忠の正室崇源院(名はごう)が姉の常高院に宛てた消息でも「五」と自署している。ゆえに自署が「ね」一字であることをもってそれが本名であると言い切ることはできない。
- 鎌倉時代から江戸時代にかけて、調べうる限りでの女性名を集めたが、「ね」なる一字名はただの一人も存在していない。いっぽう「ねね」は鎌倉時代あたりから現れ、非常に頻繁に用いられる女性名である(同時代にも黒田長政継室、諏訪頼重室、前田利常室、南部直政室など複数見られる)。以上より、高台院の名は「ね」ではなく「ねね」の方が自然であろうと思われる。
ちなみに、NHKの大河ドラマにおいては長年「ねね」が用いられてきたが、1996年の『秀吉』および2002年の『利家とまつ』では「おね」の呼称が使われた。2006年の『功名が辻』でも当初は「おね」が使われる予定だったが、原作(司馬遼太郎著)に忠実にするという理由で再び「ねね」に戻された。その一方で、同じNHKの「その時歴史が動いた」では現在も「おね」が使用されている。
[編集] その他
- 近年、京都東山の高台寺周辺の人気観光スポットを徒歩で繋ぐ参道が整備され、「ねねの道」の愛称で親しまれている。
- 名古屋では信長・秀吉・家康を「三英傑」と呼び、毎年彼らを称える祭でパレードが行われるが、長く秀吉の相手役の女性は「淀君」とされた(信長には「濃姫」、家康には「千姫」)。が、これも近年「ねね」に変更された。地元でも歴史的評価が変わったのだ。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『北政所―秀吉歿後の波瀾の半生』津田三郎著・中央公論社 ISBN 4-121011-97-X
[編集] 外部リンク
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