山中貞則
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山中 貞則(やまなか さだのり、1921年7月3日 - 2004年2月20日)は、日本の政治家、元衆議院議員。鹿児島県囎唹郡末吉村深川(現曽於市)出身。ニックネームは「ヤマサダ」「ヤマテイ」。浜田幸一や一部の官僚からは「テイソク」と呼ばれていた。沖縄開発庁長官、防衛庁長官、自由民主党政務調査会長を歴任した。称号は沖縄県名誉県民。
[編集] 略歴
- 旧制都城中学(現・宮崎県立都城泉ヶ丘高等学校)、台湾・台北第2師範を卒業後、台湾国民学校で教職を務める。その後出征し、1946年に復員。
- 郷里に戻り南日本新聞記者、鹿児島県議を経て1953年の第26回衆議院議員総選挙に自由党から出馬して初当選を果たす。
- 1955年、保守合同で自由民主党結党に参加。
- 1958年、岸信介内閣で大蔵政務次官に就任。感激した山中は財政や税制に関する勉強に励み、これが後に官僚以上に税に精通した政策通との異名に繋がる。当時の森永貞一郎事務次官らがこの人事を覆そうと試みたが失敗に終わった。
- 1961年、自民党副幹事長に就任。
- 1963年、衆議院大蔵委員会委員長に就任。
- 1970年、第三次佐藤栄作内閣で総理府総務長官として初入閣し沖縄返還に尽力した。
- 1971年には初代環境庁長官を兼任、1972年には沖縄返還にあたって初代の沖縄開発庁長官に就任した。
- 1973年には第2次田中角栄内閣では防衛庁長官を1年半に亘って務め、たて続けに入閣した。
- 1974年、党の政務調査会長に就任するが、就任後1ヶ月で田中内閣が倒れ、無役になってしまう。この処遇で中曽根康弘と不仲となり、中曽根派を脱会。1978年に復帰するまで無派閥を通す。
- 1982年、第1次中曽根内閣誕生により主要閣僚である通商産業大臣として入閣するが、糖尿病のため任期途中で辞任した。
- 1979年に自民党税制調査会長を務めて以来、税制のドンとして重きをなし、「税の神様」・「ミスター税調」などと呼ばれた。税調の最高幹部として消費税導入を積極的に推し進めたが、それが祟って1990年の総選挙では僅差で落選した。
- 1993年に国政復帰。
- 1998年、山崎拓の後見人として山崎派の結成に参加するが、翌1999年に山中の意向に反して山崎が自民党総裁選挙に出馬したため、同派を離脱して中曽根の在籍する江藤・亀井派に出戻る形になった。
- 2003年、第43回衆議院議員総選挙でも危なげなく当選し、最年長、最多当選の国会議員となるが、当選から3か月後の2004年2月20日に肺炎のため死去した。享年82。通算17回当選。
- 親台湾議員として、日華議員連盟会長も務めた。また、沖縄名誉県民第一号でもある。
[編集] 趣味・特技
- 柔道四段
- 刀剣鑑賞(財団法人日本美術刀剣保存協会会長)
- 和歌(隼人と言う雅号を使用)
- 読書(1962年8月の衆議院大蔵委員会の席上「私は推理小説の鬼と言われるほど乱読する方であります」と発言し、松本清張の長編『黄色い風土』を一読することを当時の警察庁刑事局長に薦めている)
[編集] 数々の山中伝説
- 県議会議員の選挙では馬に跨って街宣していた。
- 国会初登院時の服装は、アロハシャツだった。
- 一年生議員の頃は名を上げるため積極的に先輩議員を殴り、時には本会議場入口で待伏せしていた。
- 大蔵政務次官就任後の初登庁では、紋付羽織袴で乗込み職員たちの度肝を抜いた。
- 防衛庁長官時代、74式戦車の名前を「山中式戦車」にしてくれと装備局に頼むも却下された。
- 税調会長就任以来の信条として、税制に関する限り一切の陳情及び取材を受付なかった。
- 遺言で「後継は山中家から出してはいかん」と世襲を否定し、身内からの後継出馬を当然視していた自民党鹿児島県連が大騒ぎになった。
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