川内康範
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川内 康範(かわうち こうはん、1920年2月26日 - )は作詞家、脚本家、政治評論家、作家。北海道函館市出身。歌手の城卓也、作曲家の北原じゅんは甥にあたる。
目次 |
[編集] 人物
海外抑留日本人の帰国運動や、戦没者の遺骨引き上げ運動を早くから行った活動家である。この活動を通じて、政財界との関わりを持ち、福田赳夫の秘書を務め、鈴木善幸元首相、竹下登元首相のブレーンでもあった。
政治思想的には「民族派」に近いとされるが、一方で日蓮宗の寺に生まれた仏教徒であり、マハトマ・ガンジーの「非暴力・不服従」主義を高く評価し、日本国憲法第9条は護持すべきという意見の持ち主でもある。人脈的にも右派にとどまらず、アナーキストのルポライター竹中労とも親交があった。
1958年に原作と脚本を手がけたテレビドラマ「月光仮面」を始めとして、数多くの子供向け番組の原作や監修を手がける。1970年代の特撮ヒーロードラマ「愛の戦士レインボーマン」や「正義のシンボル コンドールマン」は川内の経歴や思想を色濃く反映した作品とされる。1975年から監修として携わったテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」は1994年まで20年弱にわたる長寿番組となる。
歌謡曲の作詞家としても、「おふくろさん」「君こそ我が命」「骨まで愛して」「花と蝶」「恍惚のブルース」「逢わずに愛して」「伊勢佐木町ブルース」など数々のヒット曲を持つ。
1978年から1979年にかけて森進一が渡辺プロから独立しようとした際、渡辺プロが暴力団を使って妨害。川内はこれを助け、森は無事に独立事務所を持つことが出来た。これに対し渡辺プロは森が出る番組には渡辺プロのタレントは一切出演しないと圧力をかけ、民放各局がこれに応じたため森は民放全局に出演できなくなる時期があった。
現在は青森県八戸市に在住。2007年2月、歌手の森進一に対し、今後自作曲の歌唱禁止を通告。所謂「おふくろさん騒動」が勃発。数十年ぶりに時の人となった。この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。
[編集] 性格/エピソード
- 耳毛が非常に長い。これは30年以上前から確認されているが、一般にもそのことを認知されたのは2007年のおふくろさん騒動から。「三塚博以上」と一部では騒動以上に話題となっており、2ちゃんねるなどでは愛称と化している。またこの騒動以降一部のお笑いタレントもネタにするようになった。
- 大島紬を着た女性が軽く出てくる、文章にすればわずか5、6行の場面を書くために、八丈島の泥染めをしている老婆に会ってきたことがある。それだけ作品に対して真摯に取り組んでいることを示す著名なエピソードである。
- 筋は必ず通す。
- 金は貸しても借りない。
- 熱烈なる法華宗の信者(父が法華宗の寺の住職でもあった)。
- 「喧嘩康範」の異名を取るほど、妥協しない性格で知られる。
- 永井豪が「けっこう仮面」(「月光仮面」のパロディ)執筆を事前に報告(許可願い)した際には快諾している。
- 竹下登と誕生日が同じで、長年竹下邸で合同誕生会が開かれていた。
- 「骨まで愛して」(作詞は川内)で知られる歌手/城卓矢、作曲家の北原じゅんは甥。
- 青江三奈の、芸能界の育て親であり、名付け親でもある(余談だが青江三奈は自身の小説のヒロインの名である)。
- 勝新太郎とも親交があり、そのことから水原弘のカムバックに手を貸すことになった。
[編集] 経歴
- 1920年、日蓮宗の寺に生まれる。
- 1932年。小学校を卒業。以後、家具屋の店員、製氷工場、製缶工場、炭坑夫などの数々の職業を転々とする。
- 大都映画で大道具だった兄を頼って上京。新聞配達をしながら、独学で文学修業を重ね、日活のビリヤード場に就職。人脈を広げて、日活の撮影所に入社する。
- 1941年 東宝の演劇部へ入社。やがて撮影所の脚本部へ転属となり、特撮や人形劇映画を担当。その傍ら舞台の脚本なども執筆。東宝退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動開始。デビュー作は戯曲『蟹と詩人』。
- 1945年、第二次世界大戦の兵士の遺骨引揚運動を開始。1955年まで10年間続ける。
- 1958年 テレビドラマ「月光仮面」を手掛け、大ヒット。その後作詞活動も始め、数多くのヒット曲を送り出す。
- 1975年、監修したアニメ「まんが日本昔ばなし」の放送開始。
- 1984年に食品企業を脅迫するグリコ・森永事件が発生。「週刊読売」誌上で犯人グループに対して川内が私財の1億2千万円を提供する代わりに犯行を止めるよう呼びかける。犯人グループはこの提案に、自分達は乞食ではないとして断っている。
近年はアルツハイマー病の病気療養のため都内へ通院しているという説があるが、地元紙である「デーリー東北」には時事問題等についての寄稿や投稿を繰り返しており、地元民は新聞紙上で名前を見かけることが多く、文筆等に支障は見当たらない。昨年は他の地元紙「東奥日報」の企画連載『青森はやりうた人もよう』にも取り上げられてロングインタビューを受けている。川内は30余年前から定期的に通院治療(時に入院)しているため、アルツハイマー発症の真偽は不明。
[編集] 歌手森進一との関係
2007年2月、川内作詞の『おふくろさん』を歌う森が、本来の歌詞にはないフレーズを曲の冒頭に付加していたことを知り(追加部分の考案者は保富康午で、既に30年前から歌われていたもの)、川内は森側に10年以上前(このあたりの数字は曖昧である)から再三説明を求めていたが応じず、2007年2月、ようやく話し合いを兼ねた会食に森が応じるも、直前になり、体調不良を理由に約束を欠席した事に対して激怒した。
(後日、報道された話によれば、事務所スタッフの電話中に森が談笑する声が聞こえていたことに、川内は激怒し「(談笑できるぐらいなら)這ってでも来い」と発言。そこから売り言葉に買い言葉になり、「もう俺の歌は歌わせない、歌ってくれるな」「結構です」ということになったとのこと)
2007年2月20日記者会見を開いて、同曲、及び自分の作詞した『花と蝶』『命あたえて』『語りかけ』など30曲について、今後、森の歌唱を認めない旨を発表し、森を「人間失格だ」とまで述べた。他にも新潟中越地震の際、川内は100万円を被災地募金に寄せ、森にも募金を勧めたが、1000~2000円しか募金しなかったことも暴露した[1]。
これについて森は「10年以上前、先生からお手紙頂きまして、「もうおふくろさんは歌わせない」と書いてありまして、僕が(入院時に)見舞いに来なかったことを怒っていらしたようで…僕は入院していたのを知らなかったものですから、ビックリして、そのことを手紙に書いて先生にお送りしたんです。そうしたら先生からは「そのことについてはわかった」とお返事頂いたんです」と川内側の説明と正反対のことを話し、さらに「川内先生は歌詞のことをずいぶん前にご存知だと思った」「まあ何と言いましてもねえ、まあ森進一の『おふくろさん』ですからねえ、これからも歌っていきたい」などと反発した。同日のNHK歌謡コンサート(この騒動のため、歌唱予定だった「花と蝶」を自粛し、「女のため息」へ変更した)では「今日は充実した最高の一日でした」と発言し、強気の態度を見せていたが、川内の会見のVTRを実際に見た後、翌日「あれほどに立腹しているとは思わなかった」と謝罪の意向を示した。
そして2月23日に、森は川内が滞在している東京都内のホテルまで謝罪に向かうが、門前払い。その後2月27日には、青森県八戸市の川内の自宅まで謝罪に訪れるが、本人不在であり接触ができなかった。玄関先にはおわびとして「とらや」の高級ようかんを置いていったが、それも送り返されてしまった。「『関係者以外立入禁止』の札を掲げているのにも関わらず、敷地に無断侵入した」と、川内の怒りをさらに買った結果に終った。またマスコミからは「みちのくおわび旅」と揶揄された。
一方の川内は、2月28日にテレビ朝日「スーパーモーニング」のインタビューに対して「森はウソつきだ。(彼とは)2度と会わないし、謝罪も受け入れない」と断固森を拒否している。
3月1日には、川内は報道各社へFAXを送り、「森の謝罪行脚は三文芝居」とバッサリと切り捨てた。そして、「人の作品を勝手に解釈したヤツに俺の歌を歌う資格は無い」と怒りはおさまらない。また「三文芝居の片棒を担ぐ一部マスコミの取材を今後一切お断りする。これ以上他の宿泊者の迷惑になることは慎んで欲しい」と発表。翌日、その一部マスコミ(TBS)の取材に対し、杖を振り回し取材拒否をした。その一方「お腹すいたでしょう、少し食べて下さい」と報道陣におでんとおにぎりの差し入れを行ったりもしている。
そんな中、森は、3月に行う自身のコンサート以降、川内と和解が成立までは、川内が作詞作曲した歌を封印すると発表した。
3月7日、JASRAC(日本音楽著作権協会)は、川内による正式な訴えを受けて、見解を発表。それは「改変版は著作権(同一性保持権)侵害の可能性が高く、改変版の利用許諾はできない」というものであった。さらに川内の訴えを受けて、3月11日に行われる森のコンサートに協会員を派遣し、違反が無いかチェックすることも発表した。
この件に関しては作詞家や法曹界からの「著作権の問題点を表面化した点で評価してよい」、あるいは歌手からの「森の誠意のなさが騒ぎを大きくした」と川内を擁護する意見など、高齢の川内に対する同情を含めて川内側に大きく世論は傾いている。しかし、その一方で「付け加えられた当時の森は若手で自分の意見はいえないはずで川内はこの件を当時主導した渡辺プロダクションや保富康午の遺族に対してこそ文句を言うべきで森はむしろ被害者ではないか」と川内を批判する意見、さらには「ナベプロがだんまりなのはいただけない」と当時森が所属していたプロダクションの責任を問う声も上がっている。
[編集] 作品
[編集] 映画・原作・監督
- 月光仮面(1958年):国産初の連続テレビ映画で原作も手掛ける
- 南国土佐を後にして(映画)(1959年):小林旭主演
- 銀座旋風児(映画)(1959年):小林旭主演
- 東京流れ者(映画)(1966年):渡哲也主演
- 愛の戦士レインボーマン(テレビ特撮)(1972年)
- 光の戦士 ダイヤモンド・アイ(テレビ特撮)(1973年)
- 正義のシンボル コンドールマン(テレビ特撮)(1975年)
- まんが日本昔ばなし(テレビアニメ)(1975年、1976年~1994年)
- ドリモグだァ!!(テレビアニメ)(1986年)
[編集] 映画脚本
- 『花火の舞』(1952) 第一テレビ
- 『若旦那の御縁談』(1955) 新東宝
- 『森繁の新入社員』(1955) 新東宝
- 『のんき裁判』(1955) 新東宝
- 『悪魔の囁き』(1955) 新東宝
- 『森繁のやりくり社員』(1955) 新東宝
- 『若人のうたごえ』(1955) 新東宝
- 『若人のうたごえ お母さんの花嫁』(1956) 新東宝
- 『若人のうたごえ 明日への招待』(1956) 新東宝
- 『森繁の新婚旅行』(1956) 新東宝 ... 潤色
- 『背広さんスカートさん』(1956) 新東宝
- 『大学の武勇伝』(1956) 新東宝
- 『忍術武者修業』(1956) 大映京都
- 『金語楼の兵隊さん』(1956) 新東宝
- 『忍術選手権試合』(1956) 大映京都
- 『大学の剣豪 京洛の暴れん坊』(1956) 新東宝
- 『金語楼のお巡りさん』(1956) 新東宝
- 『金語楼の雷社長』(1956) 新東宝
- 『ニコヨン物語』(1956) 日活
- 『地下から来た男』(1956) 日活
- 『金語楼の天晴運転手物語』(1956) 新東宝
- 『坊ちゃんの逆襲』(1956) 富士映画
- 『妖雲里見快挙伝』(1956) 新東宝
- 『おしゃべり社長』(1957) 東京映画
- 『妖雲里見快挙伝 解決篇』(1957) 新東宝
- 『人形佐七捕物帖 大江戸の丑満時』(1957) 新東宝
- 『怪談累が渕』(1957) 新東宝
- 『高校四年生』(1957) 日活
- 『江戸の花笠』(1958) 東映京都
- 『若君漫遊記』 サタン城の魔王(1958) 新東宝
- 『絶海の裸女』(1958) 新東宝
- 『新日本珍道中西日本の巻』(1958) 新東宝
- 『姑娘と五人の突劇兵』(1958) 新東宝
- 『月光仮面』(1958) 東映東京
- 『月光仮面 絶海の死斗』(1958) 東映東京
- 『月光仮面 魔人の』爪(1958) 東映東京
- 『金語楼の三等兵』(1959) 新東宝
- 『戦場のなでしこ』(1959) 新東宝
- 『二連銃の鉄』 (1959) 日活
- 『南国土佐を後にし』(1959)て 日活
- 『銀座旋風児』 (1959) 日活
- 『銀座旋風児 黒幕は誰だ』(1959) 日活
- 『殴りつける十代』(1960) 第二東映東京
- 『恐妻党総裁に栄光あれ』(1960) 東宝
- 『コルトが背中を狙ってる』(1960) 日活
- 『恋にいのちを』(1961) 大映東京
- 『快人黄色い手袋』(1961) 松竹京都
- 『誰よりも誰よりも君を愛す』(1961) 大映東京
- 『抱いて頂戴』(1961) 松竹大船
- 『地獄に真紅な花が咲く』(1961) ニュー東映東京
- 『ドドンパ酔虎伝』(1961) 大映京都
- 『水戸黄門海を渡る』(1961) 大映京都
- 『東京流れ者』(1966) 日活
- 『骨まで愛して』(1966) 日活
- 『あなたの命』(1966) 日活
- 『月光仮面』(1981) プルミエ・インターナショナル=ヘラルドエ...
[編集] 映画原作
- 『虹いくたび』(1956) 大映東京
- 『金語楼の天晴運転手物語』(1956) 新東宝
- 『坊ちゃんの逆襲』(1956 ) 富士映画
- 『金語楼の成金王』(1958) 新東宝
- 『月光仮面』(1958) 東映東京
- 『月光仮面 絶海の死斗』(1958) 東映東京
- 『月光仮面 魔人の爪』(1958) 東映東京
- 『月光仮面 怪獣コング』(1959) 東映東京
- 『二連銃の鉄』(1959) 日活
- 『夜霧に消えたチャコ』(1959) 日活
- 『月光仮面 幽霊党の逆襲』(1959) 東映東京
- 『南国土佐を後にして』(1959) 日活
- 『月光仮面 悪魔の最後』(1959) 東映東京
- 『銀座旋風児』(1959) 日活
- 『泣かないで』(1959) 日活
- 『銀座旋風児 黒幕は誰だ』(1959) 日活
- 『銀座旋風児 目撃者は彼奴だ』(1960) 日活
- 『殴りつける十代』(1960) 第二東映東京
- 『恐妻党総裁に栄光あれ』(1960) 東宝
- 『誰よりも君を愛す』(1960) 大映東京
- 『善人残酷物語』(1960) 日活
- 『コルトが背中を狙ってる』(1960) 日活
- 『恋にいのちを』(1961) 大映東京
- 『銀座旋風児 嵐が俺を呼んでいる』(1961) 日活
- 『快人黄色い手袋』(1961) 松竹京都
- 『誰よりも誰よりも君を愛す』(1961) 大映東京
- 『抱いて頂戴』(1961) 松竹大船
- 『地獄に真紅な花が咲く』(1961) ニュー東映東京
- 『水戸黄門海を渡る』(1961) 大映京都
- 『女は夜霧に濡れている』(1962) 大映東京
- 『湖愁』(1962) 松竹大船
- 『二階堂卓也銀座無頼帖 帰ってきた旋風児』(1962) 日活
- 『風が呼んでる旋風児 銀座無頼帖』(1963) 日活
- 『東京流れ者』(1966) 日活
- 『骨まで愛して』(1966) 日活
- 『あなたの命』(1966) 日活
- 『続・東京流れ者 海は真っ赤な恋の色』(1966) 日活
- 『愛は惜しみなく』(1967) 日活
- 『夜の歌謡シリーズ 悪党ブルース』(1969) 東映東京
- 『やくざの横顔』(1970) 日活
- 『花の特攻隊 あゝ戦友よ』(1970) 日活
- 『盛り場流し唄 新宿の女』(1970) 日活
- 『レインボーマン 殺人プロフェッショナル』(1973) 東宝=NET
- 『月光仮面 』(1981) プルミエ・インターナショナル=ヘラルドエ...
- 『撃てばかげろう』(1991) サム・エンタープライズ・グループ
[編集] 映画監修
- 『まんが日本昔ばなし “桃太郎”』(1977) グループ・ダック=毎日放送 ...
- 『まんが日本昔ばなし かぐや姫』(1978) 毎日放送=グループ・ダック ...
- 『月光仮面 』(1981) プルミエ・インターナショナル=ヘラルドエ
- 『まんが日本昔ばなし ほらふき天狗、おけさねこ』(1982)
- 『恋文』(1985) 松竹富士=廣済堂映像=ケイ・エンタープラ
[編集] 作詞
- 月光仮面は誰でしょう(1958年) 作曲:小川寛興、歌:近藤よし子・キング子鳩会
1972年に月光仮面がテレビアニメ化された際に、同じ歌詞に三沢郷が作曲した別バージョン(歌:ボニージャックス・ひばり児童合唱団)が主題歌に採用された。
1971年にはモップスが「月光仮面」というタイトルでカバーしているがおふざけソングに改竄したため川内サイドが抗議。結果封印の憂き目を見た。 - 月光仮面のうた(1958年) 作曲:小川寛興、歌:三船浩(実はこの曲が月光仮面の真のテーマソング)
- 誰よりも君を愛す(1960年) 作曲:吉田正、歌:松尾和子&和田弘とマヒナスターズ
- 恍惚のブルース(1966年) 作曲:浜口庫之助、歌:青江三奈
- 君こそわが命(1967年) 作曲:猪俣公章、歌:水原弘
- 伊勢佐木町ブルース(1968年) 作曲:鈴木庸一、歌:青江三奈
- 花と蝶(1968年) 作曲:彩木雅夫、歌:森進一
- 逢わずに愛して(1969年) 作曲:彩木雅夫、歌:内山田洋とクール・ファイブ
- この世を花にするために(1970年)作曲:猪俣公章、歌:橋幸夫(機動隊応援歌)
- 愛は不死鳥(1970年)作曲:平尾昌晃、歌:布施明
- 銀座の女(1970年) 作曲:曽根幸明、歌:森進一
- おふくろさん(1971年) 作曲:猪俣公章、歌:森進一
- 「レインボーマン」より
- 愛の執念(1974年) 作曲:北原じゅん、歌:八代亜紀
- 愛ひとすじ(1974年) 作曲:北原じゅん、歌:八代亜紀
- 座頭市の歌(1974年) 作曲:曽根幸明、歌:勝新太郎
- にっぽん昔ばなし(1975年) 作曲:北原じゅん、歌:花頭巾(「まんが日本昔ばなし」のテーマ曲)
[編集] 小説
- 「愛なぜ哀し」(双葉社)1967
- 「愛の痛み」(春陽堂書店)1968
- 「愛は惜しみなく」(講談社)1968
- 「愛は死んだ」(東京文芸社)1970
- 「青い裸像」(南旺社)1958
- 「赤より朱く」(広済堂出版)1970
- 「赤い血の恋」(東京文芸社)1968
- 「あなたと二日いたい」(集英社)1967
- 「あなたの命 」(集英社)1966
- 「偉大なる魔女」(現代文芸社)1958
- 「命あたえて」(ノ-ベル書房)1990
- 「命悔いなき愛なれば」(東京文芸社)1964
- 「海は真赤な恋の色」(東京文芸社)1966
- 「怨念」(広済堂出版)1973
- 「駆落ち」(ノ-ベル書房)1989
- 「勝手にしやがれ」(穂高書房)1960
- 「君こそわが命」(徳間書店)1967
- 「銀座旋風児」(穂高書房)1959
- 「銀座退屈男」(優文社)1957
- 「銀蝶ブル-ス」(東京文芸社)1967
- 「月光仮面 上、下」(穂高書房)1958
- 「恋にいのちを」(東京文芸社)1960
- 「恋雨」(東京文芸社)1965
- 「恋しても愛さない」(東京文芸社)1963
- 「恍惚」(講談社)1967
- 「終宴1 漂泊の抄」(広済堂出版)1971
- 「終宴2 輪廻の抄」(広済堂出版)1972
- 「終宴3 忘却の抄」(広済堂出版)1972
- 「誰よりも君を愛す」(東京文芸社)1960
- 「天の琴」(森脇文庫)1956
- 「憎まれッ子物語」(アルプス)1963
- 「日本の壁 第1部」(東洋書房)1961
- 「眠いの起さないで」(東京文芸社)1961
- 「花と蝶」(東京文芸社)1969
- 「悲恋」(東京文芸社)1962
- 「風雪山脈」(アルプス社)1963
- 「骨まで愛して」(講談社)1966
- 「虫けら」(講談社)1970
- 「夢魔性魔」(東京文芸社)
- 「恋燈」(廣済堂)1975
- 「わが恋の旅路」(東京文芸社)1969
- 「私のために死ねますか」(集英社)1984
[編集] 参考文献
[編集] 脚注
- ^ ただしこのことについては「森進一/森昌子ジョイントショー」を開催した際の利益から500万を寄付したと森の事務所が反論している。