希土戦争 (1919年-1922年)
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希土戦争(きとせんそう、1919年 - 1922年)は第一次世界大戦後ギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争。小アジアに侵攻したギリシャ軍はケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い現在のギリシャ領が確定した。 トルコではアンカラ政府の影響力が決定的となり、22年のスルタン制廃止、23年の共和国建国につながった。
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[編集] 背景
第一次世界大戦において同盟国側に立ち参戦したオスマン帝国は、1918年10月ムドロス休戦協定を結び連合国に降伏した。イスタンブールを始めとするオスマン帝国領には連合国が進駐し、イギリスはイラクのモースル、南東アナトリア、西アナトリア、黒海の沿岸都市を、またフランスはキリキアを、イタリアはアナトリア半島南西のアンタリアとコニアを占領した。1919年5月には休戦協定に違反して、小アジア西岸の都市イズミルにギリシャ軍が上陸した。貿易港として栄えたイズミルを始めとするアナトリア半島のエーゲ海沿岸諸都市にはギリシャ人が多くすみ、ギリシャの首相エレフテリオス・ヴェニゼロスはこれらの都市をギリシャ領として併合することを狙っていた(メガリ・イデア)。
一方、第一次世界大戦時のガリポリの戦いにおいてトルコ軍を率い英雄となったケマル・パシャはスルタンメフメト6世率いるイスタンブール政府の意に反し抵抗運動を指導することを決心し、1919年5月19日アナトリア半島北岸の都市サムスンに上陸した。ケマルは旧青年トルコ党員を中心とする帝国議会議員、軍の司令官に呼びかけ、アナトリアの分割反対を唱え“アナトリア・ルメリア権利擁護委員会”を結成して抵抗組織を旗揚げした。1920年3月16日にイギリス、フランスを中心とする連合国によって首都イスタンブルを占領されると、帝国議会議員の大半はイスタンブールを脱出し、権利擁護委員会に加わった上でアンカラにおいて大国民議会を開いた。議会は連合国の占領下にあるイスタンブール政府に代わって自らの正統性を主張し、ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
1920年8月10日、連合国とイスタンブール政府はセーヴル条約を調印した。この条約では東アナトリアにおけるクルド人自治区およびアルメニア人国家の樹立、東トラキアおよびエーゲ海諸島のギリシャへの譲渡、イズミルを中心とするアナトリア半島のエーゲ海沿岸地域はギリシャの管理区とした上で住民投票により帰属を決定することとなった。また、イスタンブールおよび両海峡周辺は海峡管理委員会の保護下に置かれることになった。自身の地位の保持を狙い、スルタンが行ったこうした妥協に対して、トルコ人国民国家の樹立を目指すケマルはトルコ人居住地区の分割、特にギリシャのイズミル占領に強く反発した。
[編集] ギリシャ軍のアナトリア侵攻
1921年1月6日、アレクサンドロス1世の死去により王位に復位したコンスタンティノス1世の指揮のもと、ギリシャ軍はイズミルからアンカラを目指して進軍を開始した。2方向に分かれ進軍したギリシャ軍はアンカラ西方300kmのイノニュにおいて、同10月、翌年3月の二度に渡ってトルコ軍と交戦し敗北し、一時後退した。このときトルコ軍を率いていたのはケマルの片腕で後にトルコ共和国首相、大統領を務めることになるイスメト・イノニュであった(イノニュの姓はこの戦いを記念して贈られた)。エーゲ海沿岸部に比べ、アナトリア内陸部にはギリシャ正教徒はほとんど住んでおらず、ギリシャの侵略に対してゲリラによる反撃が多発していた。1921年7月、ギリシャ軍はイギリスなどから物資の援助を受けて3たび進軍し、今回はアンカラ西方50kmの地点まで進撃することに成功した。トルコ国民議会はケマルを総司令官に任命し、直接指揮にあたらせることになった。ケマルはアンカラ西方サカリヤ川沿いに100kmに及ぶ塹壕線を築き、数に勝るギリシャ軍に対峙し、事態は消耗戦の様相を呈してきた。ゲリラにより補給を寸断されていたギリシャ軍は次第に押され気味になり、9月12日トルコ軍が攻勢に出ると、これを支えきれず全面撤退に入った。トルコ軍には追撃をおこなう余力はなく、ギリシャ軍は200km後方のイズミルまで撤退した。ギリシャ軍はイズミル周囲に防御線を築き、外交での解決も模索する構えを見せていたが、既にトルコ側は実力でイズミルを回復する決意を固めていた。1922年8月26日、トルコ軍はイズミル周囲100kmにわたって全面攻勢に出て、数日のうちにギリシャ軍は総崩れとなった。イズミルから軍民が艦船でギリシャ本土に脱出する中、9月8日にはイズミルがトルコ軍に占領され、逃げ遅れたギリシャ軍兵士の多くは射殺された。数日後には市街地で火災が発生し、トルコ軍の略奪もあって貿易港として栄えた町は灰燼に帰した。
[編集] ローザンヌ条約
イズミルを占領したトルコ軍は北へ向かい、海峡管理区域のイギリス軍部隊と対峙した(チャナック危機)。トルコ軍は管理区域から撤退し、実際の戦闘は避けられたが、ケマルの率いるトルコ国民軍と争う余裕のない英仏両国は、セーヴル条約に代わる講和条約をアンカラ政府と結ぶ必要に迫られた。トルコは東トルキアに軍を進駐させることを条件にギリシャと休戦した。敗北したギリシャでは、戦争前に亡命していたヴェニゼロス支持派の軍人によりクーデターが発生した。戦争を押し進めた国王コンスタンティノス1世は再び退位させられ、ゲオルギオス2世が即位することになった。1923年7月にスイスのローザンヌで旧連合国とトルコ政府、周辺諸国を交えローザンヌ条約が調印された。この中で東トルキアおよびイズミルはトルコ領となり、ギリシャ、トルコ間の現国境が確定した。さらにこの条約では、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定した。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。例外として、イスタンブールにおける正教徒コミュニティーとギリシャ領トラキアにおけるイスラム教徒は居住を許された。