松平義行
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松平 義行(まつだいら よしゆき、1656年12月24日(明暦2年11月9日) - 1715年8月31日(正徳5年8月3日))は江戸時代の大名。信濃国高井藩主、美濃国高須藩主。
[編集] 経歴
尾張藩主徳川光友の次男。母は3代将軍徳川家光の長女千代姫。正室は毛利綱広の娘、継室は榊原政房の娘。子女は松平武雅など。幼名は岩之丞、源次郎。法名は祟厳院。官位は従四位下・権少将・摂津守。
寛文6年(1666年)、従四位下・権少将・摂津守を授与される。天和元年(1681年)、信濃国に3万石の新知を認められ、元禄13年(1700年)に美濃国高須藩に移封され、その初代藩主となる。子の多くは夭折し、唯一生き残った四男武雅も6代将軍・徳川家宣の弟松平清武の養嗣子となって越智松平家を継いでいたため元禄14年(1701年)、甥で徳川綱誠十五男の松平義孝を養嗣子に迎える。正徳5年(1715年)、60歳で死去。
藩主の入れ替えが頻繁に続く尾張徳川家の後見をしていたことでも知られる。
[編集] 子供たち
- 長男 源之助 1683生 夭折
- 次男 孫次郎 1698生 夭折
- 三男 弁之助 1701生 夭折
- 四男 武雅 1705-1728(初名行高)、1724年越智松平家養嗣子となる
- 五男 吉五郎 1706生 夭折
- 六男 鐵五郎 1707生 夭折
- 養嗣子 松平義孝
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