日ソ共同宣言
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日ソ共同宣言(にっそきょうどうせんげん)は、正式には日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(昭和31年12月12日・条約第20号)と言う。1956年10月19日に日本とソビエト連邦がモスクワで署名し、国会承認をへて、同年12月12日に発効した外交文書(条約)のこと。これにより両国の国交が回復したが、国境確定問題は先送りされた。日ソ国交回復共同宣言ともいわれる。
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[編集] 経緯
[編集] 交渉開始まで
第二次世界大戦末期の1945年8月8日、ソビエトはヤルタ協定に基づき、日本に日ソ中立条約破棄を通知すると共に国交を断絶、宣戦を布告した。9月2日に日本が降伏文書に署名し、戦争が正式に終結するまでにソビエト軍は満州国(中国東北部)や朝鮮半島北部、南樺太(サハリン南部)や千島列島全域、北方領土を占領した。
また、ソビエトは連合国の一員として日本統治への関与を求め、最高司令官への諮問機関として設置された対日理事会に参加したが、アメリカ合衆国将軍でもある最高司令官のダグラス・マッカーサーは対日理事会をほぼ無視し、日本政府も圧倒的なアメリカの支配力に服属したため、日ソ両国の外交ルートはほぼ完全に途絶えていた。
その後、1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれて、ソビエトが併合を宣言した樺太(サハリン)や千島(クリル)列島などの日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリア抑留をされた日本軍将兵を日本に送還する事業は続けられたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままだった。
政治的混乱が一応収束し、日本と連合国との間の平和条約締結が政治的課題になると、日本国内ではアメリカを中心とする資本主義諸国との単独講和か、ソビエトなどの社会主義諸国も含んだ全面講和かという論争が起こったが、親米路線の吉田茂首相は単独講和路線を採用した。一方、ソビエトは1950年2月14日に、国共内戦に勝利して中国大陸を新たに支配した中華人民共和国との間に中ソ友好同盟相互援助条約を締結したが、この中で日本軍国主義復活への反対を明記した事で、日本政府の対ソ感情はますます悪化した。これは同年6月25日勃発の朝鮮戦争で日本がアメリカ軍(国連軍)の後方支援基地となり、ソビエトが中国を通じて間接的に参戦した(全面的な軍事援助、空軍兵士の参戦)事でさらにこじれた。
また、ソビエトがシベリア抑留者の一部を戦争犯罪者として裁き、ソビエト国内で服役させた事や、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し、事実上非合法化したというそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となった。
1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結したが、講和会議に中国の代表として中華人民共和国を招請しなかった事に反発するソビエトは、会議には出席したものの、条約調印は拒否した。そのため、1952年4月28日の条約発効とともに対日理事会が消滅した後は、日ソ両国の接点は失われた。
ただし、ソビエトも日本との外交関係回復は、同じ敗戦国の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)同様、戦後処理の政治的・経済的課題として存在しており、1953年のヨシフ・スターリン死去と朝鮮戦争の休戦は西側諸国との関係改善をより積極的に進める要素となった。日本でも親米主義に傾倒する吉田茂首相が1954年に退陣し、保守派ながらアメリカ以外の国も重視した独自外交を模索する鳩山一郎へ政権が交代した事で、外交交渉開始への環境が徐々に整っていった。また、日本の国際社会復帰を完成させる国際連合加盟には、日本の加盟案に対して安全保障理事会で拒否権を発動するソビエトとの関係正常化が不可欠であった。
[編集] 交渉の経緯
1955年6月、ロンドンの在英ソビエト大使館で国交正常化交渉が開始された。日本側の松本俊一全権大使とソ連側のマリク駐英大使による交渉は北方領土問題で難航し、保守合同による自由民主党の発足と対ソ強硬派の活動という日本側の国内事情もあって、交渉は一時中断した。12月には、ソビエトは日本を含んだ国際連合への18ヵ国一括加盟案に拒否権を発動した。
しかし、対ソ国交回復と国際連合加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山首相の熱意は強く、河野一郎農相のモスクワ訪問などで交渉再開への道筋が付けられた。また、日ソ漁業交渉の決着は国交正常化への地ならしともなった。
1956年10月12日、鳩山首相は河野農相などの随行団と共にモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記などとの首脳会談が続けられた。焦点の北方領土問題は、まず国交回復を先行させ、平和条約締結後にソビエトが歯舞諸島と色丹島を引き渡すという前提で、改めて平和条約の交渉を行うという合意がなされた。
10月19日、モスクワにおいて鳩山首相とソビエトのブルガーニン首相が共同宣言に署名し、12月12日に発効した。
[編集] 宣言の内容
- 日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する。(サンフランシスコ条約で為し得なかった講和の成立)
- 日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。
- ソビエトは日本の国際連合加盟を支持する。
- ソビエトは戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。
- 日ソ両国は通商関係の交渉を開始する。(同日に通商航海条約を締結)
- 日ソ両国は漁業分野での協力を行う。
- 日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソビエトは日本へ歯舞諸島と色丹島を引き渡す。
[編集] その後の影響
[編集] 政治
共同宣言の締結により、日本の国際連合加盟への障害がなくなった。1956年12月18日の国際連合総会で、ソビエトは他の東欧諸国ともに日本の加盟に賛成し、全会一致による日本の加盟が実現した。また、この国際連合加盟により鳩山内閣は総辞職し、石橋湛山内閣に引き継がれた。
しかし、平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソビエトの妥協点が見出せないまま、開始が延期された。
逆に1960年、岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発し、歯舞諸島と色丹島の返還(ソビエト側は「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」と主張)を撤回したため、両国の政治的関係は再び冷却した。1973年に日本の田中角栄首相がモスクワを訪問するまで、両国の首脳会談は17年間も開かれなかった。
一方、ソビエトにとっては1955年の対西ドイツ国交樹立に続く敗戦国との外交関係回復であり、戦後処理は一応完結した。フルシチョフにとっては西側諸国との平和共存政策(「雪どけ」)の成果の一つとなった。ただし、日本が西側諸国の一員になる事は阻止できず、領土問題は日本国民の対ソ感情を悪いままにとどめる結果を招いた。
[編集] 経済
外交関係の回復により、両国の経済交流が復活した。日本はシベリアの豊富な森林資源(北洋材)に注目し、シベリア鉄道を経由したヨーロッパ諸国への連絡ルートも旅客・貨物両面で利用される事になった。一方、ソビエトは日本を北東アジアでの経済的パートナーとしてみなし、国際見本市などの開催や投資の受け入れ、軍港として外国人の立ち入りを禁止したウラジオストクに代わる対日貿易港ナホトカの整備などをおこなった。
太平洋の北西部やオホーツク海における北洋漁業は、この共同宣言により政治的保証がなされ、安定的な操業に大きく役立ったが、これ以後も北方領土付近の海域を中心に拿捕事件が多数発生し、長年にわたって両国関係を悪化させる要因ともなった。