松本俊一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松本 俊一(まつもと しゅんいち、1897年6月7日 – 1987年1月25日)は、昭和期の外交官・政治家。
[編集] 経歴
台湾台北生まれ、広島県呉市広町育ち。広島県立呉中学校(呉三津田高校)を経て1921年東京大学法学部卒業。外務省入省後、1942年、重光葵外務大臣下で外務次官。駐仏印大使を経て1945年、東郷茂徳外務大臣下で再び外務次官となり迫水久常らと終戦処理にあたった。戦後は1946年、公職追放を受け家業の松本建設社長を務め1952年追放解除により外務省顧問として復帰。同年戦後、最初の駐英大使を務めた後、1955年の総選挙で民主党から旧広島2区に立候補して当選、以降三期連続当選。鳩山一郎首相から日ソ交渉全権代表に起用され1955年6月からロンドンの在英ソビエト大使館におけるソ連側全権代表・マリク駐英大使による会談で日ソ国交回復への道を開いた。
1958年、第2次岸内閣で内閣官房副長官就任。続く第2次岸内閣改造内閣でも官房副長官を務めたが、1963年の総選挙で落選し、外務省顧問に就任する。1965年、ベトナム戦争の調査団として現地を視察するも帰国後、「アメリカ軍の北爆の効果は限定的で、逆に南ベトナム解放民族戦線への支持が南ベトナム国内に広がっており、アメリカ軍の敗北は避けられない」とする報告書を出して物議を醸したが、後にこの見通しが正しかった事が証明された。1966年、朝日新聞社より発刊された日ソ国交回復交渉時の松本の回想録『モスクワにかける虹:日ソ国交回復秘録』は貴重な資料とされる。現在、ゆまに書房より復刻版が出ている。1967年勲一等瑞宝章授章。