東大寺学園
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東大寺学園は奈良県奈良市にある比較的新興の中高一貫校。東大寺を母体として1926年5月4日開校。当初は勤労青年を対象とした夜間旧制中学だったが、1963年に全日制課程を新設し現校名に改称、1977年を最後に定時制課程を休止し全日制のみとなる。
なお、関係者は前身が定時制中学であったことを公言してはばからないが、実際、現在ある「東大寺学園」は定時制とは別に、まっさらに作られた新しい全日制の学校が存続している物である。
奈良県の北の端、高の原駅が最寄駅であるが、徒歩20分程度を要する。通学時間帯のみ、奈良交通バスが運行されるが、多くの生徒は歩いて通っている。隣の平城駅から通学する生徒も少なからずいるが、やはり徒歩20分程度を要する。平城駅を利用するのは、主に近鉄奈良線(生駒・難波方面)から来て、隣の大和西大寺駅で乗り換える生徒のようである。大和西大寺駅から平城駅までは約10分なので、大和西大寺駅から歩くと約30分で到着できる。
日本テレビの「全国高等学校クイズ選手権」で最多の出場回数を記録している(2006年時点で15回)。
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[編集] 大学合格実績
東大寺学園は自由な校風であり、それゆえに同じような学風を求めて京都大学へ進む生徒が多い。東京大学合格者数は30人前後、京都大学合格者数は90人前後と安定している(学年の半数以上が東大京大へ進学)。京都大学への合格率(合格者数÷卒業生数)は近年ずっとトップであり、現役合格率も同様にずっとトップである。また「東京大学・京都大学・その他の国公立大学医学部医学科」への合格者数が150人前後(現役が約100、浪人が約50)に安定している。1学年の生徒数は220人(高校)なので、約7割の生徒が最終的に上記へ進学していることになる。上記への実績を基準としているのは、医学科以外の京都大学へ合格できる学力をもった生徒が、医者を志望してその他の国公立大学の医学科へ進むケースが増え、実際の学力水準がそのまま東大・京大の合格者数に反映されなくなってきたためである。
[編集] 概要
制服の着用義務がない(私服通学)ほか、明文化された校則を有せず、風紀について大部分を生徒の良識に委ねるなど、自由な校風を特徴とする。生徒手帳が無く、代わりに生徒証という三つ折のカードがある。仏教系の学校では珍しく、設立当初から宗教教育が全く行われていない。現在は入学式・卒業式の際に東大寺の僧が挨拶に来る程度であり、それらしきものとしては旧校舎時代、登校時に大仏殿に向かって一礼するのが慣習だったのみである。当初校舎は東大寺境内(南大門の横)にあり、狭く運動場も借用だったが(日本一狭い中高、と自嘲する教師もいた)、生徒の自主性を育む指導は高い評価を得、文部省の官僚が時たま視察にきた。校舎を移転した今でも地元の奈良旧市街での人気は根強く、奈良市内通学者のうち相応の割合を占める。毎年5月2日には東大寺で「聖武祭(聖武天皇祭)」が開催され、この日は休校日となっている。高校生はこの行列参加など東大寺関係のアルバイトをすることができる。旧校舎時代の名残か、生徒証を見せると大仏殿を無料で拝観できる。毎年9月には生徒の手で「菁々祭(せいせいさい)」という文化祭が催される(通例第2週の土日)。恒例企画に「Mr.美少女コンテスト(美女コン)」なるものがあり、参加希望生徒が女装してパフォーマンスを行う。最近はOBの講演会が催され、映画監督の高橋伴明や京大医学部出身プロボクサーの川島実、外務省の某氏が招かれている。ほか室内学部の定期演奏会、教師による体験授業、保護者によるお茶会などがあり、通常の来客だけでなく小学生やその保護者も楽しめる内容となっている。クラブ活動も活発で、運動系は多くが毎年近畿大会へ進み、どこかの部が全国大会へ出場している。文化系では百人一首部・囲碁将棋部などが強豪であり、将棋の個人戦では県上位を独占し、近年全国大会でも優勝した。生徒の自由に任せているため、高3までクラブを続ける者もいる。なお最近は伝統のクイズ研究会が同好会からクラブに昇格し、今後の活動が注目される。
[編集] 沿革
- 1926年5月4日 金鐘中等学校設立認可
- 1943年4月28日 金鐘中等学校を金鐘中学校と改称
- 1947年4月1日 青々中学校設立認可(→現在の東大寺学園中学校)
- 1948年3月3日 学制改革により金鐘中学校を金鐘高等学校(定時制)と改称
- 1963年4月1日 全日制高等学校を開設。東大寺学園中学校・高等学校と改称
- 1974年3月31日 定時制課程を停止
- 1986年4月1日 東大寺境内にあった旧校舎から、現在の場所に移転
[編集] 設立の経緯
1947年の学制改革の折、「旧制中学のような新制中学」を求めた市民運動が起源。奈良市立小学校(主に椿井小学校)の父兄が、公立中学校への失望感からスクラムを組んで立ち上げた運動である。この運動に東大寺の清水公照氏(初代校長)が関わっており、東大寺の学僧も協力して、昼間空いている金鐘中学校(翌年金鐘高校)の校舎を使って設立された。当初から入学倍率が高く、設立から数年で県内トップ私立中と化した。当初「仮称平城中学校」として募集し、1回生が入学したあと5月に公募の結果を受け「青々(せいせい)中学校」と正式決定した。由来は詩経の「菁々」。これが現在の東大寺学園中学校である。
[編集] 高校を増設
学校法人金鐘学院は、金鐘高校と青々中学校という、目的も形態も全く異なる学校を経営していた。この2校に接点はあまりなく、それゆえ青々中学校の卒業生はいったん高校受験をし、奈良県立奈良高等学校(ほとんど全員がここへ進学)や奈良女子大学附属高等学校といった県内上位高校を経由して大学へ進学していた。「これではあまりに不便だ」という声が内部から出、「せっかく育てた生徒を他の学校にとられるのは惜しい」といった声もあいまって、青々中学校に高校(仮称青々高校)を増設することになった。これが現在の東大寺学園高校である。この高校は青々中学校卒業生の受け皿として作られ、外部からの新規入学は数名のみだった。高校1期生(第14回生)の97名は、卒業時(1966年)に東大1京大7阪大4という実績をだし、以後漸増してゆき現在に至る。
[編集] 名称を統一
1963年4月、念願の「青々高校(仮称)」ができたわけだが、法人の経営する全ての学校を新名称で統一することになった。結局「東大寺学園」という無難な名前に落ち着き、青々系は「東大寺学園中学校・高校」、金鐘系は「東大寺学園高校定時制」、女学校は「東大寺学園女子学院」、幼稚園は「東大寺学園幼稚園」と一斉に名称統一した。
[編集] 同窓会
以上のような歴史があるため「東大寺学園高校」の同窓会は「青々中学校」と合同であり、名称は「同窓会菁々」。1回生~13回生は青々中学校OBで構成、14回生以後は東大寺学園高校OBで構成、というかたちになっている。2005年3月卒業生が53回生であり、会員数は約7500名。「同窓会菁々」以外に「金鐘中等学校」-「東大寺学園高校定時制」のラインの同窓会(約1500名)もあり、別に構成されている。
[編集] 歴代校長
- 初代 清水公照 - 東大寺の僧で、書道教師。あだ名は「ネギぼうず」。「旧制中学のような新制中学」を求める市民運動に関わっていた。その運動でできた青々中学校(現東大寺学園中学校)の初代校長に就任。能筆家で掛け軸などが結構出まわっている。207代・208代東大寺別当。兵庫県姫路市の出身。
- 2代 上司海雲 - 東大寺の僧で、書道教師。志賀直哉の門人で文学者。杉本健吉・須田剋太ら芸術家との交流が深かった。206代東大寺別当。
- 3代 矢鋪大治郎 - 生え抜きの数学教師。
- 4代 次田吉治 - 生え抜きの理科教師。
- 5代 西岡淑雄 - 日本英学史学会名誉会員。
- 6代 田中良夫 - 奈良県立奈良高校校長から招聘。
- 7代 新藤晋海 - 東大寺の僧。現在地への校舎移転時の理事長。216代東大寺別当。日本ユニセフ協会奈良県支部設立発起人。
- 8代 牧野英三 - 奈良教育大学名誉教授。研究家であると同時に作曲家でもある。
- 9代 山田哲夫 - 奈良県立奈良高校校長から招聘。
- 10代 森本晧昭 - どこかの校長から招聘。
- 11代 田中満夫 - 副校長から昇格。昔は大阪の公立の校長だった。生徒が十分な準備をした上で授業に臨めるようショートホームルーム(8:30~8:45)なるものを作った。毎朝8時25分ぐらいから転心殿前で生徒と挨拶をしている。
[編集] 著名な出身者
[編集] 東大寺学園高校
念願であった全日制高校が昭和38年に開設され、昭和41年以来の卒業生です。
- 白浜一良 - 参議院議員3期目。公明党幹事長代理、公明党関西方面議長。昭和41年東大寺学園高校卒業
- 俵本正章 - 読売新聞大阪本社記事審査委員 昭和41年東大寺学園高校卒業
- 矢和多忠一 - 奈良県教育長、学びんピック委員 昭和41年東大寺学園高校卒業
- 北岡伸一 - 政治学者、東京大学教授(法学政治学研究科)。国連次席大使(ニューヨークに出向中)。昭和42年東大寺学園高校卒業
- 高橋伴明 - 映画監督、関根恵子の夫。(株)ブロウアップ代表取締役、桐朋学園芸術短期大学講師。昭和42年東大寺学園高校卒業
- 所太郎 - ミュージシャン・TVリポーター(テレビ朝日のスーパーモーニングなど)。昭和42年東大寺学園高校卒業
- 岡田正己 - 東北大学教授(情報科学研究科) 昭和43年東大寺学園高校卒業
- 吉岡政徳 - 神戸大学教授(国際文化学部) 昭和43年東大寺学園高校卒業
- 川尻全良 - 私立奈良学園中学校高等学校前校長(~2005)、昭和44年東大寺学園高校卒業
- 金春康之 - 能楽師(日本能楽会会員)。大和四座の金春流シテ方。2001年より人間国宝。昭和44年東大寺学園高校卒業
- 狭川普文 - 東大寺北林院住職、華厳宗教学部長、東大寺福祉事業団理事長 昭和44年年東大寺学園高校卒業
- 谷口栄一 - 京都大学教授(工学部) 昭和44年年東大寺学園高校卒業
- 上崎善規 - 大阪大学教授(歯学部) 昭和45年東大寺学園高校卒業
- 小林英一 - 神戸大学教授(自然科学研究科) 昭和45年東大寺学園高校卒業
- 島谷能成 - 映画プロデューサー、東宝(株)常務取締役。「陰陽師」など。昭和45年東大寺学園高校卒業
- 辻村泰善 - 元興寺住職 元興寺文化財研究所理事長 昭和46年東大寺学園高校卒業
- 米田正始 - 京都大学教授(医学部) 昭和48年東大寺学園高校卒業
- 大森太郎 - キャピタルエンジニアリング代表取締役社長 昭和49年東大寺学園高校卒業
- 米田悦啓 - 大阪大学教授(医学系研究科) 昭和49年東大寺学園高校卒業
- 大西広 - 京都大学教授(経済学研究科) 昭和50年東大寺学園高校卒業
- 清須美匡洋 - 九州大学教授(芸術工学院) 昭和50年東大寺学園高校卒業
- 大町公 - 奈良大学教授(倫理学)
- 上田悟 - 奈良県議会議員(自民党)2期目。自民党県連広報委員長。昭和51年東大寺学園高校卒業
- 山本太治 - 三輪そうめん山本代表取締役社長 昭和51年東大寺学園高校卒
- 佐藤愼司 - 東京大学教授(工学系研究科) 昭和52年東大寺学園高校卒業
- 嶋名隆 - 朝日新聞政治部記者 昭和52年東大寺学園高校卒業
- 中野俊一郎 - 神戸大学教授(法学部) 昭和52年東大寺学園高校卒業
- 安本憲典 - みずほ銀行調査役 昭和52東大寺学園高校卒業
- 田村元秀 - 天文学者、国立天文台助教授 昭和53年東大寺学園高校卒業
- 山際悦治 - カシオ情報サービス取締役 昭和53東大寺学園高校卒業
- 中須賀真一 - 東京大学教授(工学系研究科) 昭和54年東大寺学園高校卒業
- 森雅彦 - 森精機製作所社長 昭和55年東大寺学園高校卒業
- 吉信達夫 - 東北大学教授(工学研究科) 昭和57年東大寺学園高校卒業
- 橋田久 - 名古屋大学教授(法学部) 昭和57年東大寺学園高校卒業
- 広瀬公巳 - NHK国際部記者(クアラルンプール支局) 昭和57年東大寺学園高校卒業
- 木村貴宏 - イラストレーター、アニメーター、キャラクターデザイナー。「キムタカ絵」と呼ばれる独特の線の持ち主。昭和58年東大寺学園高校卒業
- 永岡俊哉 - 山口朝日放送周南支局長(元アナウンサー) 昭和59年東大寺学園高校卒業
- 木村幹 - 神戸大学教授(国際協力研究科) 昭和60年東大寺学園高校卒業
- 毛利透 - 京都大学教授(法学研究科) 昭和60年東大寺学園高校卒業
- 榊一郎 - 小説家、ライトノベル多数。アミューズメントメディア総合学院講師。昭和61年東大寺学園高校卒業
- 前田利親 - 読売新聞編集局記者 昭和62年東大寺学園高校卒業
- 中村哲治 - 前衆議院議員。2005年9月の郵政選挙で刺客高市早苗に敗れる。民主党前副幹事長、民主党県連会長。平成2年東大寺学園高校卒業
- 栗本篤志 - 精机国際貿易有限公司総経理。平成6年東大寺学園高校卒業
- 河野真也 - お笑い芸人(オクラホマ)CREATIVE OFFICE CUE所属。平成10年東大寺学園高校卒業
- 弁護士44名、高裁判事1名、地裁判事5名、特許庁審判長1名
[編集] 金鐘中等学校
厳密に言うと金鐘中等学校卒業生は「同窓会菁々」の会員ではありませんが、あくまで参考として11期の2名、上田繁潔氏と東井正美氏を紹介しておきます。前身の旧制中学が、夜間といえども十分なレベルを持つものであったことがうかがえるからです。
- 上田繁潔 - 元奈良県知事、3期11年余。シルクロード博の立役者。退官後は関西大学理事長など。昭和15年金鐘中等学校卒業
- 東井正美 - 関西大学名誉教授(経済学部)、アメリカ農業経済の権威 昭和15年金鐘中等学校卒業