高市早苗
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生年月日 | 1961年3月7日 |
出身地 | 奈良県 |
最終学歴 | 神戸大学経営学部経営学科卒業 |
学位 | 経営学士(神戸大学) |
前職 | 評論家 日本経済短期大学(現、亜細亜大学短期大学部)専任教員 |
役職 | 元近畿大学教授 内閣府特命担当大臣 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選挙区 | (奈良1区→) 奈良2区 |
当選回数 | 4回 |
所属党派 | (無所属→) (自由党→) (新進党→) 自由民主党(町村派) |
党の役職 | 党情報調査局長 |
会館号室 | 衆・第一議員会館628号室 |
ウェブサイト | http://rep.sanae.gr.jp/ |
高市 早苗(たかいち さなえ、本名・山本 早苗=やまもと さなえ、1961年3月7日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員。元近畿大学教授。夫は、同じく自民党衆議院議員の山本拓。
目次 |
[編集] 概要
奈良県奈良市出身。奈良県立畝傍高等学校を経て、1984年に神戸大学経営学部経営学科を卒業。大学時代はヘヴィメタルバンドでドラムスを担当していた。大学卒業後、松下政経塾(第5期)に入塾。同期に伊藤達也や民主党の武正公一がいる。1987年アメリカに渡り、左派リベラルでフェミニスト運動の急先鋒だった民主党のパット・シュローダー下院議員の個人事務所でインターン同様のフェロー(無給、雇用関係なし)として勤務する。
1989年に帰国し、元米国連邦議会立法調査官・議会スタッフと自称し、また「立法政策研究センター専門研究員」という肩書を名乗り、講演や執筆活動を通じて、マスコミに注目され始めた。このころ1990年に亜細亜大学系列の日本経済短期大学(現、亜細亜大学短期大学部)助手、1992年には関西ハイビジョン・コンソーシアムを設立し会長に就任するなど、精力的に活動。同年、参議院議員選挙に奈良選挙区から保守系無所属で立候補するが落選。この選挙では、当初、自由民主党奈良県連に候補者として名乗りを上げるが、公認から漏れる(自民党公認候補は服部三男雄)。
1993年、第40回衆議院議員総選挙で旧奈良全県区から無所属で立候補し、トップで初当選を飾る(他方で新党さきがけに公認申請していた)。1994年に自民党の政策集団「リベラルズ」に参加。リベラルズは、自民党を離党した柿沢弘治を党首とする自由党となり、羽田孜が首班の非自民連立政権に与した後、同年7月27日海部俊樹を代表とする自由改革連合結成。同年12月10日の新進党結党大会に参加する。
1996年10月、第41回衆議院議員総選挙では新進党公認で立候補し、2回目の当選。しかし、この選挙で新進党は敗北し、選挙後、自民党幹事長の加藤紘一からの引き抜きに応じ、11月5日に高市は新進党を離党し2日後の総理大臣指名選挙では自民党総裁橋本龍太郎を支持。12月27日、自民党に入党。新進党の公認候補として反自民票を集めての当選であっただけに、その直後に離党し自民党総裁たる橋龍を総理大臣指名選で支持した事は「有権者に対する裏切り」と非難を受けた。
自民党では清和政策研究会(三塚派 - 森派 - 町村派)に所属し、小渕恵三内閣の通産政務次官や、衆議院文部科学委員長などを歴任する。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、自民党の比例近畿ブロック単独上位に登載され、3選を果たす。当選後、下村博文、世耕弘成、山本一太らと共に森喜朗首相の「勝手補佐官」を自称し、テレビにも積極的に出演。2002年には小泉改造内閣で経済産業副大臣に就任する(政経塾同期で93年衆院初当選同期の伊藤達也と共に初の松下政経塾出身副大臣)。しかし、2003年の第43回衆議院議員総選挙では、比例復活も果たせずに落選(ちなみに、この選挙では森派所属の前職議員で、落選したのは高市一人だけであった)。
2004年、自民党衆議院議員の山本拓と結婚。近畿大学教授に就任。
2005年9月、第44回衆議院議員総選挙で郵政民営化法案に反対した滝実に対する対抗馬として、それまでの選挙区であった奈良1区から奈良2区に国替えして立候補し、当選。国政に返り咲きを果たす。(但し、滝実も比例近畿ブロックで復活当選を果たし、当時の民主党現職候補が落選した)
安倍晋三の「再チャレンジ推進委員会」を支援する「再チャレンジ推進議員連盟」会員。「新聞の特殊指定に関する議員立法検討チーム」座長で新聞の特殊指定見直しに反対している。業界団体である日販協政治連盟から政治献金を受けている。
2006年9月、安倍晋三内閣で内閣府特命担当大臣として入閣。沖縄及び北方対策、科学技術政策、イノベーション、少子化・男女共同参画、食品安全を担当。
[編集] 人物像
- サンデープロジェクトで満州事変や以後の戦争を「自衛のための戦争だった」、「セキュリティーの戦争だった」と指摘すると、司会の田原総一朗が「あなたのような下品で無知な人にバッジつけて靖国のことを語ってもらいたくない」と激昂した。田原の高市に対する態度は反発を招き、彼は次週の同番組にて釈明した。靖国神社のA級戦犯の分祀、国立追悼施設の建設に反対している。
- 田原が釈明したことと関連して、右翼団体・日本連合総裁の朝堂院大覚(本名:松浦良祐)が、自身の団体を率いてテレビ朝日や田原に対して街宣攻撃を仕掛けて屈服させ、田原は朝堂院に謝罪した。朝堂院は高市と懇意にしているといわれる。
- 『歴史教科書問題を考える超党派国会議員の会』(会長・中川昭一)に所属。
- 夫婦別姓反対派の急先鋒であり、推進派の野田聖子と激しく対立した。通称使用を提唱していた事もあり、結婚後、通称使用を自ら実践すべきとの夫の説得に応じ、旧姓高市を通称としている。
- 親米保守のスタンスをとっており、男女共同参画などを「急進的な女性優遇措置」として反対している。
- 日本の保守系政治家が選挙時に有権者の前で土下座することを侮蔑していた。しかし初めての選挙の時、後援会長に「土下座するのが当たり前」と促され、感極まった弟が土下座をすると、涙ぐむ有権者の万雷の拍手の中、姉弟土下座をした。(TBS『報道特集』)
- 2000年、保守党の松浪健四郎が野次を飛ばした議員に壇上からコップの水をかけた事件が起こった際、野次の内容が下品だったこともあってか、「私だったらコップごと投げつけてますね」とテレビ番組でコメントしている。最も、高市が説明した野次の内容(「お前、扇と何発やったんだ」)について、松浪は否定しており、食い違いがある。もし松浪の言うとおりなら高市は嘘をついたことになるが、これについて本人による説明はない。
- 2006年の教育基本法改正に関する特別委員会で採決された時には涙を流した。
- 2006年07月24日テレビ朝日系放送の「ビートたけしのTVタックル」にコメンテータとして出演し、サラリーマン増税・残業手当廃止などのテーマにおいて、企業の法人税は上がっていない事について「企業あっての労働者でしょう。企業がだめになったら給料もボーナスも払えないでしょう」等と発言した。
- 2007年1月に、柳沢伯夫厚労相が「女性は産む機械」との発言を行った際には、「私は子供を授かれない体なので、機械なら不良品になってしまう」と批判した。
[編集] 主な著書
- アズ・ア・タックスペイヤー ―政治家よ、こちらに顔を向けなさい―
- アメリカ大統領の権力のすべて
- アメリカの代議士たち
- サッチャーからの提言・新しい日本
- 高市早苗のぶっとび永田町日記
- 21世紀日本の繁栄譜
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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