桜井の別れ
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桜井の別れ(さくらいのわかれ)とは、建武3年(1336年)の湊川の戦い直前に西国街道の桜井駅(現在の大阪府島本町)において行われたとされる楠木正成・正行(まさつら)父子による今生の別れを指す。「桜井の駅の別れ」ともいわれる。第二次世界大戦(厳密には、太平洋戦争)で日本が敗戦するまでは、日本の国語及び修身の教科書に必ず掲載されており、当時の日本人には有名であった。
建武3年5月、正成は九州から東上してくる足利尊氏の大軍(『太平記』によると、数十万とされている)を迎え撃つため新田義貞のいる兵庫へ向かうことになった。しかし、正成自身が同じ官軍であった義貞の武将としての才能を見限っていて、後醍醐天皇に尊氏と和睦することを勧めたり、一旦京都を離れて比叡山に登り空になった都に足利軍を封じ込めて兵糧攻めにするべき、等と数々の進言をしたが、結局受け入れられず死を覚悟して戦場に赴くことになった。
『太平記』には、桜井の宿にて正成が数え年11歳の正行に対し、「自分は生きて帰らないつもりで戦場に向かうので、お前は故郷の河内(現在の大阪府東部)に帰って朝廷(ここでは後醍醐天皇のことをさす)に忠誠を誓え。」と諭したと記している。ただし、正行の当時の年齢は既に青年というべき二十歳前後であったのでは、という見方も出ており、桜井の別れそのものを疑問視する向きもある。
明治時代初期において、重野安繹がこれを否定する意見を述べ、近年においても『逆説の日本史』シリーズを執筆している作家の井沢元彦は、『第7巻 中世王権編 太平記と南北朝の謎』の中で忠臣を称える宋学の立場から正行を11歳にしたのだと断言している。が、正行の当時の年齢については、11歳説、青年説の両方とも以前から論争されているので、現在の時点で決めつけるのはやや乱暴のきらいがある。
いずれにせよ、父・正成と別れた正行はその後南朝側の将として最後には四條畷の戦いで戦死しているので、そういった事実から桜井の別れが創作された可能性もある。『太平記』の作者の一人とされる小島法師自体、その生涯について不明な点が多いのでこの逸話についてもまだ調べる素地があると見てよかろう。
[編集] これを題材にした作品
- 能の演目。四番目物の侍物。桜井 (能)(さくらい、喜多流)、桜井駅 (能)(さくらいのえき、金剛流)、楠露(くすのつゆ、観世流)
- 吉備楽の演目。上記がモチーフ。桜井駅 (吉備楽)
- 『桜井の訣別』。「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ……」で始まる唱歌。落合直文作詞・奥山朝恭作曲
- 『鉄道唱歌関西・参宮・南海篇』5番「心の花も桜井の 父の遺訓を身にしめて 引きは返さぬ武士の 戦死のあとは此土地よ」
カテゴリ: 楠木氏 | 日本の南北朝時代の事件