池田純一
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池田 純一(いけだ じゅんいち、1946年5月15日 - 2005年5月17日)は、阪神タイガースで活躍したプロ野球選手。右投左打。熊本県荒尾市出身。
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[編集] 来歴・人物
八代東高校では夏の甲子園に投手として出場し、引き分け再試合を経験した。巨人と阪神のスカウト合戦の末、1965年(昭和40年)に阪神へ入団。好守の外野手として活躍した。打撃も勝負強く、サヨナラ本塁打は通算5本であり、1970年(昭和45年)にはヤクルトの松岡弘投手から代打サヨナラ満塁本塁打を放っている。そして、1973年(昭和48年)に転機が訪れる。当時阪神は8連覇中の巨人軍と激しい優勝争いを展開していたのだが、8月31日の巨人戦で黒江透修の打球を池田が整備の悪いグランドの芝に足を取られて落球してしまい、逆転負けを喫してしまう。そして、最終的に0.5ゲーム差でジャイアンツに敗れてしまった。
この年は金田正泰監督と主力選手の間で争い事があり、球団もチームが優勝することを望んでいない節があったという証言がある。また、今も語り草となっている中日球場での中日最終戦(優勝がかかった一戦で中日と相性のよい上田次朗ではなく、江夏豊を先発させた。その試合で星野仙一は巨人に優勝させたくないという理由から全部ストライクを投げたのに、阪神ナインは金縛りにあったような状態で、あきれた高木守道の「さっさと終わろう」の一言で全力投球に切り替えた。この試合で池田は一時同点となる二塁打を放っている。)、ヤクルトの安田をはじめとする左投手アレルギーなど、優勝を逃した最大の原因は団結力も含めた地力の無さであったのだが、シーズン後にあの試合に勝っておけば優勝出来ていたとして、池田の落球にV逸の責任を全て負わすかのような世紀の落球という話にまで発展してしまい、池田は心無いファンからの嫌がらせ行為に苛まれて苦しんだ。
その後も1975年(昭和50年)の巨人戦で高橋一三から逆転満塁ホームラン、1976年(昭和51年)の広島戦で外木場義郎から逆転3ランホームランを放つなど、しばしば大事な場面で長打を飛ばしたが、池辺巌、東田正義、マイク・ラインバックらの加入、桑野議らの台頭などもあって出場機会が減り、2年後の1978年(昭和53年)限りで引退した。
引退後は球界を離れ、洋品店「ラッキーゾーン」を経営した。1986年のワールドシリーズで一塁ゴロをトンネルしてしまい、戦犯的存在となったボストン・レッドソックスのビル・バックナー(英語版記事)の、「このエラーをこれからの人生の糧にしたい」という趣旨の発言を聞いて涙したという。2005年5月17日死去。享年59。
[編集] 通算成績
- 1092試合 打率.241(2842打数 686安打)80本塁打 295打点 23盗塁
[編集] タイトル・表彰
- 1972年 オールスター出場
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
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