登美宮吉子
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登美宮吉子(とみのみやよしこ、文化元年(1804年) - 明治26年(1893年)1月27日)は、第9代水戸藩主徳川斉昭の正室。江戸幕府15代将軍徳川慶喜の生母。有栖川宮織仁親王の皇女。江戸幕府12代将軍徳川家慶の正室・楽宮喬子女王の実妹。院号名は「貞芳院」。水戸藩伝統の儒教に則り、没後「文明夫人」と尊称を送られる。
天保2年(1831年)に斉昭と結婚し、天保3年5月3日(1832年6月1日)に斉昭との間に長男・慶篤(第10代水戸藩主)を出産。その後、天保8年9月29日(1837年10月28日)に、七男・慶喜(一橋徳川家当主、15代征夷大将軍)を出産する。他に男子1名女子1名を儲けたが夭折している。艶福家の夫によく仕え、側室出生の子弟の教育にも目を配り「賢夫人」としての名声が生前より高かった。
万延元年(1860年)斉昭没後、貞芳院と号し、江戸向島の元水戸藩下屋敷に住んだ。しかし、前将軍の正室の妹であり、宮家出身の彼女の動向は井伊直弼をはじめとする「南紀派」幕府首脳には恐れられていたらしい[1]。
明治維新後は、若死にした慶篤の跡を嗣いだ徳川昭武の世話となり、余生を送った。別家に養子に出た慶喜との同居は武家社会の慣習上出来なかったが、親しく文通を行い、頻繁に交流していた様子が残っている書簡から伺える。
明治26年(1893年)、90歳で死去。墓所は茨城県常陸太田市にある瑞竜山墓地。
皇族出身であることを非常に誇りにしていた女性であったらしく、結婚後もしばらくは公家風の「おすべらかし、小袖に袴」姿で生活していたことを示す肖像画が残っている。また、仕えていた女中達には自分のことを「宮様」と呼ばせ[2]、自らは宮号であった「登美」を名乗っていた。ちなみに上記肖像画の添付手紙などから、夫・斉昭は「吉子」と呼んでいたらしい。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 『徳川慶喜』(平成10年「徳川慶喜展」パンフレット)
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