石原健太郎
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石原 健太郎(いしはら けんたろう 1932年(昭和12年)8月-)は昭和期・平成期に活躍した日本の政治家。福島県選出の日本の元国会議員。
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[編集] 生い立ち
父石原幹市郎(元福島県知事・元自治大臣)、母石原三起子(元福島県教育委員会委員長)の長男として、昭和12年8月誕生。幼少期は内務官僚だった父とともに東京、北海道、大阪、福島で過ごす。福島時代に父石原幹市郎が福島県知事。慶應義塾大学法学部卒業後、日本勧業銀行(みずほ銀行の前身行の一つ)に入行するが、その生活にあきたらず、北海道大学農学部研修生をへて、福島県福島市荒井に入植、酪農業を営む。
[編集] 来歴・人物
福島市荒井に入植し酪農業を営んでいたが、ロッキード事件に反発し、金権政治打破を目標とした河野洋平を代表とする新自由クラブ結成に伴い参議院選挙に出馬する(1976年)。国政初挑戦は資金難により会津事務所、郡山事務所などが閉鎖に追い込まれるという、厳しい選挙戦を強いられ敗北を喫する。再度参議院挑戦を目指したが、河野洋平ら周囲の要請により、衆議院に鞍替えする。衆議院初挑戦は落選だったが、半年後の衆議院ハプニング解散に伴い、三度目の挑戦を果たし、当選。衆議院議員を2期務めた。新自由クラブでは国会対策委員長、福島県連代表などを歴任した。3期目を目指した選挙で再び落選。この間、天野光晴、亀岡高夫、粟山明、増子輝彦、八百板正、佐藤恒晴、安田純治らなどと激しく選挙戦を展開した。
再起を期し活動を続けるも新自由クラブ解散(1986年)に伴い無所属となる。落選中に行われた消費税法案の是非を問う福島県選挙区の参院補欠選挙に、自民党より候補者として白羽の矢が立ち立候補。当選し、参議院議員となった。石原の当選により、自民党内消費税反対派も了承し消費税法案が成立の運びとなった。補選後半年余りで行われた参議院本選で再び当選。自民党では河本敏夫ひきいる河本派に所属し通産政務次官・選挙制度に関する特別委員会委員長等を歴任。PKO法案の強行採決のなし崩し的な姿勢に反対し自民党を離党。PKF解除に一石を投じる。その後PKF解除論議はおきていない。
参議院議員辞職後に無所属で中選挙区制度最後の衆議院選挙に挑戦するが落選。政権交代後の小選挙区制度最初の衆議院選挙にも挑戦し落選。誰もが引退を想像する中、政治活動を無所属で継続、自民党に対するその政治姿勢に対し、信念を貫く政治家との評を得る。
日本一新を掲げる小沢一郎の強い要請により自由党より衆議院選挙に再度挑戦(2000年)。東北比例復活当選を果たす。若手の多かった自由党内では、問題点を解決する着眼点を持つと評され、経験豊富なベテラン議員として、国会対策、議会運営などの分野で活躍、国会等の移転に関する特別委員会委員長時代には小泉純一郎の首都機能移転凍結に反対し委員長を辞職(2002年5月)、凍結を回避した。民主党衆議院議員小宮山泰子は当時公設第一秘書。
自由党と民主党の合併(2003年)により引退。2度も政党の解散、合併に巡り会うという不運を経験した。多くの政党を渡り歩いたその経歴を非難する声が多い中、実直な人柄、頑固さを高く評価する声もある。国政選挙に10度挑戦し5勝5敗、衆議院3期、参議院2期を務めた。
政界引退後は農業に従事するかたわら社会福祉法人の理事長に就任。福祉の道を歩む。
[編集] 逸 話
- 慶應義塾大学を卒業後、日本勧業銀行に入行するが、1年足らずで退職、家族とも音信を絶ち、北大農学部研修生となる。
- 政界入りする前40数頭いた牛が選挙のたびに1頭、2頭と売られ、新自由クラブ解散時には10数頭まで減る。
- PKOに反対し離党するとき党首脳に「君は次は大臣も狙える立場じゃないか」といわれるが初志を曲げず離党。
- 赤字で解散寸前の社会福祉法人理事長の要請を受け、周囲のいさめも聞かず、なくすことはできないと就任。
[編集] 略歴
- 石原幹市郎・三起子の長男として誕生
- 福島県立福島高等学校を経て、東京都立九段高等学校卒業
- 慶応大学法学部卒業
- 日本勧業銀行入行
- 北海道大学農学部研修生
- 国際農友会ニュージーランド留学
- 福島市荒井に入植、有限会社石原農場代表取締役
- 新自由クラブ福島県連代表、衆議院議員2期
- 自由民主党福島県連副会長、参議院議員2期
- 自由党福島県連代表、衆議院議員1期