稲葉菫通
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稲葉 菫通(いなば まさみち、宝永3年(1706年) - 元文2年1月17日(1737年2月16日))は、豊後国臼杵藩の第8代藩主。父は第7代藩主・稲葉恒通(菫通は次男)。母は側室の玉井氏。正室は有馬則維の娘。子に泰通、市橋長璉、通房、娘(一柳末栄室)。官位は従五位下。能登守。
享保5年(1720年)、父の死去により後を継ぐ。しかし翌年には天候不順により藩内に大飢饉が襲って大被害を受け、それによってただでさえ悪化していた藩財政がさらに悪化した。このため、1729年には49か条にわたる倹約令を出して藩財政再建を目指したが、享保17年(1732年)には城下にて大火事が起こるなどして大被害を受けるなど、藩政は多難を極め、藩財政も破綻寸前となった。このような中で失意のうちに元文2年(1737年)正月17日に32歳の若さで死去し、後を長男の稲葉泰通が継いだ。墓所:東京都港区高輪の東禅寺。
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