竜王町 (山梨県)
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竜王町(りゅうおうまち)は、山梨県北西部に存在した町。
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[編集] 地理
縦長の町域で、北部は茅ヶ岳山麓に属する登美台地の南端(赤坂台地)で畑地となっており、桑や果樹が栽培されている。台地を迂回して中央本線が通り、中心駅として竜王駅がある。平坦な中南部は甲府盆地に属し、かつて釜無川の氾濫原であった沖積平野で、現在でも自然堤防の微高地が見られる。
[編集] 歴史
「竜王」は中世以来の地名で、一説によれば有富山慈照寺に湧く竜王水に由来するという。縄文弥生の考古遺物は見つかっていないが、双葉にかけて赤坂古墳群が見られ、集落は赤坂台地に存在していたと考えられている。開墾で原型を留めないものの後期古墳時代の遺跡が発見されており、小字名にも「~塚」が多く見られる。1976年(昭和51年)の中央自動車道建設では、竜王2号墳、3号墳の発掘が行われ、盗掘を受けた形跡のある横穴式石室が発見された。また、昭和63年の調査では17箇所の古墳跡が確認された。
律令時代には巨麻郡に属していたと考えられている。平安時代には町域は八条院領篠原荘に含まれ、皇室領であった。中世には武田氏による釜無川の治水工事(信玄堤)が施され、堤防管理のため棟別役を免除された人々が定住し、竜王河原宿が成立。
近世に天領で、一時期の甲府藩領を経て享保年間には再び天領となる。7か村があり、甲府代官支配であった。玉川村以外は北山筋に含まれた。玉川村は中郡筋に含まれ上飯田代官支配であったが、幕末には7か村はすべて甲府代官支配となる。江戸期にも治水工事は続けられ、屋敷地子を免除された。宝永年間には代官指導で竜王4か村堰など農業用水が引かれ新田開発が行われ、富竹村の住民が移住して富竹新田が成立。
また、甲州街道に添う煙草の産地で、竜王煙草は塩山とともに甲斐における江戸向け煙草の二大産地となった。
農業と養蚕を中心とする生業は近代でも保たれていたが、戦中には疎開先として一時的に人口が増加し、戦後の高度成長では甲府近郊として、都市化の影響を受ける。1971年(昭和46年)には国道20号甲府バイパスか開通し、沿線は商業地域へと変貌し、隣接する昭和町に振興工業団地が進出した影響を受け、中南部の水田地帯を中心に宅地化も進んだ。
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[編集] 行政区域の変遷
- 1875年(明治8年) - 西八幡と玉川での2村で豊明村(のちに玉幡村)が誕生。竜王、竜王新町、篠原、富竹新田、万歳の5村で竜王村が誕生。
- 1878年(明治11年) - 玉幡村、竜王村が中巨摩郡に編入。
- 1956年(昭和31年)9月30日 - 中巨摩郡竜王村と玉幡村が合併して竜王町が誕生。
- 1958年(昭和33年) - 敷島村名取地区を編入。
- 2004年9月1日 - 中巨摩郡敷島町、北巨摩郡双葉町と合併し、甲斐市になる。
[編集] 文化財
竜王の慈照寺本堂と山門、昭和33年6月19日、1965年(昭和40年)5月13日に県指定建造物。また、慈照寺文書や、篠原の山県神社が所有する山県大弍関係史料では、発音略1巻、天経発蒙8巻、琴学発揮2巻、制作図式1巻、熱海浴泉歌1幅、寄厳仲説兄詩1幅 雪車詩1巻などの自筆著書や墨書の原本のほか、竜王の信玄堤関係文書である保坂家文書5通などが1969年(昭和44年)11月20日に県指定書跡。ほか、竜王新町から双葉町下今井にかかる赤坂台古墳郡に属する中秣塚古墳は1996年(平成8年)11月7日に県指定史跡。
また、篠原の法久寺境内にあるカシワの巨樹は1983年(昭和58年)12月26日に県指定の天然記念物。
[編集] 教育
[編集] 小学校
- 竜王小学校
- 竜王南小学校
- 竜王西小学校
- 竜王北小学校
- 竜王東小学校
- 玉幡小学校
[編集] 中学校
- 竜王中学校
- 竜王北中学校
- 玉幡中学校
[編集] 交通
[編集] 鉄道
[編集] 出身有名人
[編集] 関連項目
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