美濃部亮吉
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美濃部 亮吉(みのべ りょうきち、1904年2月5日 - 1984年12月24日)は、日本の経済学者、政治家である。元東京都知事、元参議院議員(全国区選出)。
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[編集] 略歴
- 1927年:東京帝国大学経済学部卒業。東京帝大助手になる。
- 1929年:東京帝大農学部講師(~1932年)。
- 1935年:法政大学教授に就任。
- 1938年:人民戦線事件で検挙され法大教授を辞任。翌年、信越化学工業の嘱託。
- 1945年:毎日新聞論説委員を委嘱される。
- 1946年:内閣統計委員会委員に任命、事務局長を兼任。
- 1949年:東京教育大学教授を併任(~1967年)。翌年、経済安定本部参与に就任。
- 1952年:行政管理庁統計基準部長(~1956年)。
- 知事選出馬前はNHKテレビ「やさしい経済教室」の解説者も務めており、お茶の間に名前が売れていた。
- 1967年:東京都知事選挙に社会党・共産党推薦で立候補、自民党・民社党推薦・松下正寿立教大学総長と公明党推薦・阿部憲一渋沢海運社長を破り当選。
- 1971年:社会・共産の推薦で出馬、自民党推薦の秦野章前警視総監を破り再選。
- 1975年:社会・公明・共産の推薦で出馬、自民党推薦の石原慎太郎前代議士と民社党推薦の松下正寿を破り三選。
- 1979年:四選不出馬を表明。都知事を退任。
- 1980年:参議院議員選挙に出馬し、当選。
- 1984年:死去。
[編集] 概要
[編集] マルクス経済学者
東京高等師範付属、二高を経て東京帝国大学卒業。美濃部達吉・多美子夫妻の長男として東京に生まれた。父・達吉は天皇機関説で知られる憲法学者で、母・多美子は数学者・教育者・政治家として活躍した菊池大麓の長女。したがって亮吉は箕作阮甫の玄孫にあたる。
第二高等学校から東京帝国大学経済学部に進み、マルクス経済学者の大内兵衛に師事し、後期資本主義の危機的状況の諸現象、なかんずくインフレーションを研究した。助手となるが、マルクス主義と処世の両立を安易に信じているような態度で挨拶に行ったことが反マルクス派の河合栄治郎の怒りを買い、母校の経済学部に講師として残ることが不可能になる。そのため法政大学経済学部に転出し、以後マルクス経済学者として教鞭を振るう。
[編集] 東京都知事
日本社会党を支持基盤とする革新都知事として知られ、1967年から1979年の12年間(3期)に渡り知事をつとめた。美濃部亮吉の政治的手腕は母方の祖父・菊池大麓から、リベラルな思想は父・美濃部達吉から受け継がれたといえる。
政策面で評価されている点としては、老人医療費無料化、高齢住民の都営交通無料化、公害対策で企業に厳しい条件を課すなど、福祉、環境政策において様々な施策を次々打ち出し、東都政の時代において取り残されていた課題へ対応した点が挙げられる。批判されている点としては、東京都を前代未聞の財政難に転落させた事で、後年「戦後都政の暗黒時代」と批判される事にもなった。その要因の一つとしては、社会党を支持基盤としていたため、労働組合との関係から、都営バス運転手などを含む都職員の人件費が聖域化し全く手をつけることができず、年を追う毎に人件費が膨らんでいったことが指摘されている。
[編集] 主な施策
[編集] 公営ギャンブル廃止
公営ギャンブル廃止を政治公約として前面に押し出し、事実、美濃部の都知事就任後に東京都は競輪・競馬・オートレースの全ての事業から撤退している。これについては本人がギャンブル嫌いであったこと、主婦層をターゲットとした票稼ぎなどが理由として挙げられている。この政策に反対するものとしては、後楽園競輪場は「競輪のメッカ」と呼ばれたほどの集客と売上、知名度を誇った競輪場であったため、この競輪場を美濃部が休止したことが、後々に至って日本の競輪、さらには近代オリンピックの競技であるトラック系自転車競技の発展・強化に少なからぬ阻害を与えたというものである。
これに対し、「教育・文京地区」を区の上層部自ら標榜する文京区などでは、同区内にあった「後楽園競輪場を潰した知事」という印象が強く現在でもギャンブル廃止論を支持するものは少なくない。都財政再建と三宅島復興資金確保を理由に石原慎太郎都知事が提唱している都営後楽園競輪(別称「東京ドーム競輪」)再開の反対運動を展開している人々を中心に、現在でも当時を懐かしむ発言をする者がいる。また、都が払い下げた公営ギャンブル施設について、運営状況が赤字のものが多く、結果として都財政にはマイナスにはなっていないとの指摘がある。
[編集] 道路開発
東京外環自動車道、首都高速道路中央環状線での道路開通について、道路工事反対の住民運動の側に立った政策を実施したことが結果として、東京の道路整備が大きく遅れ(外環や中央環状線の工事凍結等)、慢性渋滞とそれに伴う排気ガス公害を招き、かつ地域エゴを増長させたとする意見がある。これに対し、地域住民の公害被害や当時の公害に対する防止設備が整っていないことを考えると、地域住民の立場に立ったことで公害被害を守ったとして評価する意見もある。いずれにせよ、一人の人間が反対すれば橋をかけない信条の「橋の哲学」と呼ばれる、全体の利益よりも住民の一人ひとりからの説得を重視する美濃部の政治スタンスであると言える。
[編集] 北朝鮮との関係
対南北朝鮮、在日韓国・朝鮮人の関連では全国の都道府県の中で先駆けて朝鮮総連など、北朝鮮に近い立場の関連施設の固定資産税を免税にしているほか、朝鮮大学校を各種学校として認可している。美濃部は「都市外交の一環」を名目に1971年に、現職知事としては唯一の北朝鮮訪問を行い、その際に金日成と面会を果たしており、北朝鮮との間に太いパイプがあったことは事実であると言われている。その会談において、美濃部は、
「私は1925年に大学を卒業して以来約40余年間マルクス経済学を勉強してまいりました。それ故に私は社会主義者であり、社会主義の実現を理想とする人間です。金日成元帥がなされたような活動は出来ませんでしたが、日本国内で私のなし得ることはやりました。・・このような立場にたっている私としては、貴国で進められている社会主義建設の早いテンポには非常に尊敬の念を抱いてきました」
と発言した。この発言だけを見ると、スタンスとしては北朝鮮を支持するものであると言える。(もっとも、北朝鮮訪問を行った政治家は、本人の思想の如何に関らず北朝鮮側の要望で金日成や北朝鮮の国家体制などを、手放しで評価・礼賛する内容の発言を行うよう強いられるケースも少なくない。詳細は飛鳥田一雄#評価などを参照のこと)
支持基盤が北朝鮮との繋がりが深い日本社会党であったため、前出の公営ギャンブル廃止論の背景には北朝鮮利権が色濃いパチンコ産業の拡大を政治面から後押しする事が目的なのではなかったかとの疑念を示す意見もある。その他、都内でのパチンコ遊技場や飲食店の設置について、美濃部在職中においては北朝鮮資本が関係するものは比較的スムーズに営業開始に至ったものが多かったのに対し、一方で特に韓国系資本の関わるものについては各種許認可の遅延など様々な妨害が行われたとの声が、主として民団系の立場の者からは出されている。
ただし、民団系の在日韓国人に対して万事冷淡であったかというと必ずしもそうとは言い切れず、在日外国人に対する医療保険の適用を行うなどしており、そのことに対して辛淑玉は在日韓国人であるが、美濃部亮吉のおかげで命を永らえることができたと高く評価している。
[編集] 日本共産党との関係
革新知事の象徴としての側面が強いが、同じ革新系でも共産党との関係はお世辞にも順調とは言い難いものであった。
1975年の3選の際には、部落解放同盟を巡って支持基盤の日本社会党と日本共産党の間で対立が起こるなどしていた。社共対立を理由に一時美濃部は不出馬を表明していたが、「石原慎太郎の出馬によるファシズムの否定を阻止する」(本人談)という理由付けで3選出馬に踏み切ったことに対する反発が大きかった(一説には、美濃部自身は最初から3選を考えていたが、社共対立に頭を痛めていたため、社共の自身への支持を確実なものにするために石原をダシにしたとの指摘がある)。
社会党系列の知事であったために、当時の東京都議会において共産党は与党でありながら知事の出した議案に反対することが多く、共産党参議院議員の有働正治などは「革新知事と呼ぶに値しない」と批判をした。そのため議会対策も兼ねて任期途中で公明党との間で政策協定を結ぶなど、共産党への牽制も少なからず行っている。
[編集] 参議院議員への転出
知事退任後は社会党東京都連などの推薦を受けて無所属で参議院議員に転出。革新自由連合所属の中山千夏の率いる「一の会」に所属し、後に第二院クラブらの議員との統一会派「無党派クラブ」「参議院の会」代表を務めるも、病もあり目立った活動がないまま、任期途中の1984年12月、自宅で死去した。
[編集] 評価
なお、評価されている点については、高度経済成長期における利益の配分に余裕のあった時代において可能とされた政策である面が強く、批判されている点についても、高度経済成長が終わり、低成長時代となり税収が低迷することを予期できなかったために財政難になった面もある。
いずれにせよ、美濃部都政には東京都という豊かな自治体がゆえに実施できた政策が多いという側面が強く、いわゆる1960年代~1970年代の革新自治体に見られる都市部における余裕の表れでもあり、農村部には革新自治体が広がらず、不況の時代になった際に革新自治体が消滅していった原因を美濃部都政から伺い知ることができる。
[編集] 家族
信濃毎日新聞社社長・衆議院議員・貴族院議員を務めた実業家小坂順造の長女・百合子(自由民主党衆議院議員小坂善太郎・自由民主党衆議院議員小坂徳三郎の姉)と結婚し、長男・次男・三男を儲けたが、都知事就任前に離婚。子供三人は小坂家に引き取られた。都知事就任時には既に再婚しており、後妻との間に長女を儲けている。
長男は自由民主党衆議院議員小坂憲次の秘書を務めた。また次男は僧侶となってオーストラリアに渡り、三男は信越化学工業に勤務した。いずれも小坂姓を名乗っている。
[編集] 著書
- 『独裁制下のドイツ経済』
- 『苦悶するデモクラシー』
- 『都知事12年』
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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