西日本旅客鉄道鷹取工場
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鷹取工場(たかとりこうじょう)とは、兵庫県神戸市須磨区の山陽本線(JR神戸線)鷹取駅の北に隣接して設けられていた、西日本旅客鉄道(JR西日本)の車両工場。略称は「鷹工」。阪神・淡路大震災により工場自体が被害を受けたことと跡地を市街地復興事業に資するため、2000年3月31日に100年間の歴史を閉じた。閉鎖後は兵庫県揖保郡太子町の旧網干電車区に機能を移転し、旧網干電車区及び旧明石電車区の検修部門を統合した網干総合車両所に生まれ変わった。整備済み車両の車体に記される略号は「TT」であった。
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[編集] 歴史
[編集] 創設~戦前
創設は1900年3月1日、山陽鉄道が開業当初から兵庫駅構内に開設していた兵庫工場が手狭になり拡張の余地もなかったための代替施設として設けられた。国有化に伴う鉄道院への承継後、1909年12月20日に兵庫工場を吸収統合、また1915年4月1日には、大阪・神戸間鉄道開業以来の歴史を有する神戸工場の組織を吸収して支工場とし、1年後の1916年4月6日には完全統合した。その他、鉄道省の組織変遷の中で、多度津、米子、池田(大阪府)の各工場が鷹取工場の支工場や派出所とされた時期もあった。
1942年9月11日、全国23の工場が一斉に改組されて名称が鷹取工機部に改められた。
[編集] 戦争の影響
1945年6月5日の神戸大空襲によって壊滅的な打撃を受け、疎開先として加茂、和田山、加古川に派出職場を作るなどしたが、機能低下を補うため1946年1月20日になって、兵庫県加古郡荒井村(現・高砂市)の旧大阪陸軍造兵廠の播磨製造所跡に鷹取工機部の高砂分工場を設置、1947年3月1日には高砂工機部として独立した(なお高砂工機部、すなわち後の高砂工場は1985年4月1日に閉鎖され、その業務は鷹取工場が集約した)。
[編集] 戦後
1952年8月5日、全国一斉の工機部から工場への名称変更に伴い、鷹取工場の名称が復活した。
1973年9月1日、組織上の位置づけが大阪鉄道管理局の地方機関に変更された。鷹取工場は従来、支社制が採られている時期には関西支社の地方機関であり、支社制が採られていない時期は本社直轄の地方機関であり、その位置づけは大阪鉄道管理局と並列的であった。ところがこの時の組織改正においては、首都圏本部及び4総局の管理下にある工場を除き、一斉に鉄道管理局の地方機関とする位置づけに変更された。
蒸気機関車の製造・検修に輝かしい実績を残してきた鷹取工場だが、話題としては、国鉄80周年記念行事の一環として、明治初期に米国から輸入され北海道開拓に活躍した義経号の動態復元工事に携わった。蒸気機関車全盛期を過ぎてからは時代の流れに応じてディーゼル機関車や電気機関車にも対応するようになり、近年は岡山電車区などに所属する電車の検修業務も行っていた。
[編集] 震災
1995年1月17日の阪神淡路大震災で被災し、工場や入場していた車両も被害を受けた。特にC57形蒸気機関車1号機はボイラーなどが大きく損傷し「再起不能」とまで言われたが、懸命の復旧作業で見事営業運転に復帰させ、技術の高さで定評のある鷹取工場の面目を示した。このように長い歴史を築いてきた屈指の名門工場だったが、震災の痛手は余りにも大きく、また神戸市からの強い要請にも配慮することとし、閉鎖されることとなった。
[編集] 終焉
終業式典が挙行された2000年3月29日には、この日最後の検査をすませた221系6両の出場記念式典も併せて執り行われた。
[編集] その後の跡地
跡地は、駅前広場、バスターミナル、市立小学校、市営住宅、その他の市施設、総合病院、スーパー、民間マンションなどへの再開発が進んでいるほか、JR西日本が売却せず社員福利厚生用の神戸総合グラウンドとして整備された区域もある。
なお、JR貨物の神戸貨物ターミナル駅荷役ホーム設置場所が鷹取工場跡地であると混同されがちだが、ここは元々鷹取駅の管理に属する操車場だった一帯である。
[編集] 車両基地
和田岬線で使われていたオハ64・オハフ64、キハ35・キクハ35形の車両基地でもあった。略号は「神タカ」。
[編集] 参考文献
- 安保彰夫「100年の歴史にピリオド 鷹取工場 1900~2000」
- 交友社『鉄道ファン』2000年5月号 No.469 p75~p87
- 妹尾河童「少年H」:小説中では「鷹取機関区」と表現されている。妹尾少年とその友達の遊び場として書かれている。また、神戸大空襲で鷹取工場が標的とされたことについても小説内で言及されている。
- 「蒸機とともに一世紀」日本国有鉄道鷹取工場 編 本工場で検修、製造した蒸気機関車を形式別に図録のようまとめた内容に工場の歴史も書き綴ったもの