西郷局
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西郷局(さいごうのつぼね、永禄5年(1562年) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は戦国時代・安土桃山時代の女性。西郷正勝の外孫。叔父・西郷清員の養女。じつは、戸塚忠春の娘という。通称、お愛の方。徳川家康の側室として知られる。最愛の側室だったとも言われている。院号は竜泉院、宝台院。
西郷氏とは、九州の名門菊池氏の一門。彼女に縁ある西郷氏は、三河国へ移住した者の末裔と伝えられている。外祖父・西郷正勝の頃には、三河での影響力は皆無に等しく、今川義元の傘下で命脈を保っているに過ぎなかった。母は、今川氏の命であろうか、遠江国の戸塚忠春に嫁している。
成長して最初の夫に嫁したものの、先立たれて寡婦となっていた。そこを、同じく正室に先立たれた従兄・西郷義勝の継室に望まれたという。その義勝との間に1男1女を授かっている。または義勝が最初の夫であるとも言われる。
元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山信友の南進を阻むため、縁戚・野田菅沼氏に協力した竹広合戦で、不運にも義勝が落命する。またしても未亡人となったが、彼女の産んだ男子は幼過ぎて家督が継げなかった。
やがて、母の弟・西郷清員の養女として徳川家康の側室に望まれ、二代将軍秀忠、松平忠吉の生母となった。しかし、天正17年(1589年)に28歳という若さで死去。死後の寛永5年(1628年)になって、秀忠より正一位が贈られた。彼女は美人で、また温和誠実な人柄であり、家康の信頼厚く、周囲の家臣や侍女達にも好かれていた。また強度の近眼であったらしく、とりわけ盲目の女性に同情を寄せ、常に衣服飲食を施し生活を保護していた。その為西郷局が死去すると大勢の盲目の女性達が連日、寺門の前で彼女の為に後生を祈ったという。
秀忠の異父兄に当たる彼女の残した男子は、徳川頼宣付けになるなど、西郷一族は秀忠の治世で優遇される。しかし、秀忠が家康ほど長命でなかったため、その栄華は極めて短かった。
叔父・西郷清員の家系が、安房国東条藩の大名に取り立てられたのが最高である。ところが時代が流れて綱吉将軍の頃には、むしろ勘気を被って1万石の大名の座から転落。5000石の旗本となっている。
家宣将軍の頃に5000石を復権、1万石に回復したという。だが、その5000石も、いとも簡単に失い、元の5000石に戻ったといわれている。