西郷清員
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西郷 清員(さいごう きよかず、天文2年(1533年) − 文禄3年(1594年))は、戦国時代の武将。西郷正勝の子。西郷元正の同母弟。通称、孫九郎。初名は吉員。酒井忠次の妹婿。
家康の覚えめでたい忠勤ぶりを見せた。
今川氏離反の後、岡崎に人質に出されており、永禄5年(1562年)の五本松陥落時には居なかったともいわれる。父、嫡兄を同時に失った為、徳川家康から西郷氏の家督を継ぐべく命じられたが、頑なに拒み続けた。そして、幼年の甥・西郷義勝への家督相続を認めさせている。その義勝を守り立て、専横の振舞いも無く、ひたすらその陣代として粉骨砕身の働きを示した。そんな清員に感じ入った家康は、酒井忠次の妹との縁談を勧める。
その後も、母方の従兄弟・菅沼定盈と互いに援け合いながら、苦境下にあっても家康を見限る事無く、生涯支え続けた。
元亀2年(1571年)、武田氏の先遣・秋山信友の侵攻を受けたため、菅沼定盈らと懸命の迎撃戦を展開した。一時的に武田軍を退ける事に成功するが総領・義勝を失ってしまった。
清員の落胆振りは酷かったそうだが、義勝の男子を跡目として認めてもらうつもりだった。しかし、家康は今度ばかりは認めず、清員の子・員好を跡目としている。義勝の子が幼すぎた点もあるが、清員を気に入っていたのも理由として考えられる。員好が家員を名乗らされるのも、家康が清員を認めていた理由になるだろう。
なお、義勝の継室が家康の側室に望まれたため、清員は自身の養女として差し出している。この継室が後に徳川秀忠・松平忠吉の生母となる西郷局である。