谷川康太郎
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谷川康太郎(たにがわ こうたろう 本名 康東華 カン ドンファ1928年10月12日-1987年)は、ヤクザ、暴力団三代目山口組ニ代目柳川組組長
[編集] 生い立ちと柳川次郎との出会い
1928年大阪府東淀川区三国高須町に生まれた。 1940年頃、豊中駅前でささいな喧嘩に巻き込まれた際、柳川次郎に助けられた。 1945年淀川堤防で不良相手と喧嘩となり17歳にして懲役刑となり収監される。 戦勝国待遇として程なく保釈となり、闇市を徘徊するうちに柳川と再会し、常に行動を共にするようになる。 1946年6月闇市で悪徳商人を襲撃し強盗罪で柳川と共に逮捕され、懲役10年の刑に服することとなった。
[編集] 柳川組結成
1958年2月、既に先に出所して柳川一派を形成していた柳川と合流した谷川は大阪市西成のシノギを巡って 鬼頭組(約100人)との抗争を主導し、これを8人で破って勢力を拡大した。 1961年柳川が保釈されると柳川組を結成して自らは副組長となった。 柳川組は大阪で多数の抗争を繰り返し、勢力を広げていたため、 1962年ころに当時山口組(組長田岡一雄)の若頭であった地道行雄 に目を付けらたことが縁で、柳川が地道の舎弟となった。 山口組の配下に入った柳川組では明友会事件等で主導的な役割を果たしたため柳川組は急速に膨張した。
[編集] 柳川組二代目就任と解散
1966年柳川次郎が収監されて、不在になると急速に肥大化した柳川組の舵取りをするために 谷川が二代目に就任することになった。 しかし、柳川組は折から展開される警察の第一次頂上作戦の集中取締りの標的にされ、 逮捕者を多数出すことで、弱体化し、会長の柳川が解散を決意した。 谷川は「今のわしの親分は田岡の親分や。」と反対したが、ついに1970年4月9日獄中で解散声明を出すことになった。 柳川組を解散した後は、実業家に転身し活躍したが、1987年に死去した。