豊島泰経
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豊島 泰経(としま やすつね、生没年不詳)は室町時代の武将。豊島氏当主で石神井城主。父は豊島経祐。妻は長尾景春の妹?。弟に豊島泰明。官途名は勘解由左衛門尉。
- 諱の「泰経」は江戸時代に書かれた系図類に出ているもので、『鎌倉大草紙』や『太田道灌状』といった根本史料には「豊島勘解由左衛門尉」と官途名のみとなっており(「勘解由左衛門尉」は室町時代の豊島氏の当主が代々用いているもの)、江戸時代の系図類の信頼性の低さから、近年の研究者は諱の「泰経」は用いないようになっているが、本項では便宜上、広く知られた「泰経」を用いる。
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[編集] 生涯
豊島氏は平安時代から続く南武蔵の名族で、石神井城(東京都練馬区)を本拠としていた。室町時代には関東管領上杉氏に属してる。
江戸時代の系図類で祖父とされる豊島宣泰(勘解由左衛門尉)と父とされる経祐(新次郎)が文明3年(1471年)に関東管領上杉顕定から上野国館林城攻撃で奮戦したことを賞する感状が残っており、泰経の史料上の活動時期(文明9年(1477年)から文明10年(1478年))と非常に近いことから、これは泰経(勘解由左衛門尉)とその弟の泰明(平右衛門尉)ではないかという見方もある。
関東管領上杉顕定(山内上杉家)の有力家臣長尾景春は家宰職を奪われたことを深く恨み、文明8年(1476年)に反乱をおこし、文明9年(1477年)正月に顕定の在陣する五十子の陣を襲って敗走せしめた。(長尾景春の乱)
景春の挙兵に相模国、武蔵国の国人が呼応し、上杉氏を危機に陥れた。泰経もこれに与同する。泰経の本拠石神井城(東京都練馬区)の近くに扇谷上杉家家宰の太田道灌が江戸城(東京都千代田区)を築城しており、このことが豊島氏の権益を侵して太田氏との対立になったと考えられている。また、景春の白井長尾家は二代続けて山内家家宰職を出しており、豊島氏は白井長尾家の指揮下にあったという説もある。
泰経は石神井城、練馬城(東京都練馬区)で挙兵。泰明も平塚城(東京都北区)で挙兵した。泰経と泰明は江戸城と河越城(埼玉県川越市)の連絡を遮断して、道灌を危機に陥れるが、同年4月13日の江古田・沼袋原の戦いで大敗を喫して、泰明と多くの家臣が討ち死にしてしまう。泰経は石神井城に逃れ、道灌はこれを包囲する。泰経は道灌と会見して降伏を願い出るが、泰経が降伏の条件だった城の破却を行わなかったため、偽りの降伏とみなされて、28日に道灌は総攻めをしかけて石神井城は落城して、泰経は夜陰にまぎれて脱出した。
文明10年(1478年)正月に泰経は平塚城で再挙するが、25日、道灌に攻められて落城。泰経は足立郡へ逃れる。泰経は丸子(東京都町田市)に陣を敷くが、27日に道灌が迫ると陣を捨てて小机城(神奈川県横浜市)へ逃げ込んだ。道灌はこれを包囲し、4月11日に落城。泰経は行方知れずとなり、豊島本宗家は歴史上から姿を消した。
江戸時代の旗本豊島氏はその祖の康保や頼継を泰経の子と主張して系図類を残しているが、その系図は史実との矛盾点が多く、旗本豊島氏と武蔵の国人領主豊島氏との正確な系譜関係については疑問とされている。
[編集] 伝説
石神井城が太田道灌に攻め落とされたとき、泰経は重代の家宝「金の乗鞍」を白馬に置いて跨り、崖から三宝寺池へ飛び降り、二女の照姫もこれを追って入水したという哀話が伝えられ、泰経の墓とされる塚(殿塚)が石神井公園(石神井城跡)にある。
史実では泰経は石神井城から脱出しており、これは伝説である。
東京都練馬区では三宝寺池に入水した泰経と照姫をしのんで毎年落城の時期の4月か5月に「照姫まつり」を催し、区民たちが照姫、泰経、奥方や武者たちに扮した時代行列が盛大にとり行われている。
[編集] 参考文献
- 杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年) ISBN B000J9DKGI
- 峰岸純夫, 黒田基樹, 小林一岳ら編『豊島氏とその時代―東京の中世を考える』(新人物往来社、1998年)ISBN 4404026170
- 黒田基樹 『扇谷上杉氏と太田道潅』(岩田書院 、2004年) ISBN 4872943269
- 難波江進『豊島氏千年の憂鬱』(風早書林、2005年)ISBN 4990264307