長尾景春の乱
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長尾景春の乱(ながおかげはるのらん、(文明8年(1476年)-文明12年(1480年))は関東管領上杉氏の有力家臣長尾景春による反乱。太田道灌の活躍によって鎮圧された。
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[編集] 背景
永享11年(1439年)の永享の乱で幕府によって滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の遺児成氏は新たな鎌倉公方に迎えられたが、父を殺した関東管領上杉氏を憎み、享徳3年(1453年)、関東管領上杉憲忠を暗殺。成氏は上杉氏を支援する幕府軍の攻撃を受けて鎌倉を逃れ、下総国古河城に拠って古河公方と称し、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)および幕府から派遣された堀越公方足利政知(将軍足利義政の弟)との抗争に突入した。(享徳の乱)
山内上杉家と扇谷上杉家は上杉氏の同族だが、関東管領職は山内上杉家が継承しており、扇谷上杉家はその分家的な存在で所領も山内上杉家の家宰長尾氏の半分もなかった。古河公方との戦いで扇谷上杉家は山内上杉家を支え、特に扇谷上杉家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍によってその力を増していた。資清・資長父子は岩槻城を修築し、河越城、江戸城を築いて関東における守りと攻めの拠点とした。
享徳の乱は互いに勝敗を分けながら20年以上に及び続いた。古河公方と両上杉家の主力は北武蔵五十子(埼玉県本庄市)に陣を敷いて18年に及び対峙していた(五十子の戦い)。
[編集] 挙兵
文明5年(1473年)五十子の陣で山内上杉家家宰の長尾景信(白井長尾家)が死去した。跡は子の景春が継いだ。山内上杉家家宰の職は陪臣ながら関東管領の補佐役とあって関東では大きな権力となっていた。長尾氏は白井長尾家、惣社長尾家、犬懸長尾家、足利長尾家に別れ、持ち回りで家宰職を務めていた。家宰職が景仲、景信と二代続けて白井家から出ていたこともあり、白井家の力が強くなりすぎることを嫌った当主山内上杉顕定は家宰職を景春ではなく、惣社家の忠景に与えてしまった。景春はこれを深く恨んだ。
景春は縁者である太田道灌に同心を求めるが、道灌はこれを拒否して直ちに五十子の陣にいた主君である山内上杉顕定、扇谷上杉定正のもとへ向かう。道灌は顕定と定正に景春を懐柔すべく武蔵国守護代に任じ、忠景を一時退けるよう進言するが顕定はこれを受け入れず、ならば直ちに出兵して景春を討つよう進言するが、古河公方と対峙している状況ではそれもできないと取り上げなかった。
道灌が今川氏の内紛介入のために駿河国に滞在していた文明8年(1476年)6月、景春は武蔵国鉢形城に拠って反旗を翻す。顕定は未だ景春の力を軽視していたが、景春は優れた武勇の士であり、二代続けて家宰職を継いだ白井家の力は他の長尾氏一族よりも抜きん出ていた。五十子の陣の上杉方の武将たちは動揺し、勝手に帰国する者が続出する。
翌文明9年(1477年)正月、景春は2500騎を率いて五十子の陣を急襲し、顕定と定正は大敗を喫して敗走。18年に渡り、対古河公方戦の最大の防御拠点だった五十子の陣は景春の僅かな兵によって落とされてしまった。顕定と定正は上野国へ逃れる。
[編集] 乱の経過
長尾景春の挙兵に相模国の小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎、小沢城(神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助、溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重(景春の被官)、そして小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫が呼応。その他、多くの関東の国人、地侍が景春に味方し侮りがたい勢力となった。これに南武蔵の名族豊島氏が同心する。鎌倉幕府の有力御家人だった豊島氏は室町時代に入って、その旧領を太田氏に奪われていた。石神井城と練馬城(東京都練馬区)に当主の豊島泰経、平塚城(東京都北区)にその弟の泰明が拠り、江戸城と河越城・岩槻城との連絡線を断ってしまった。
文明9年(1477年)3月、道灌は先手を打って兵を動かし溝呂木城と小磯城を速攻で落とし、さらに小沢城を攻めるが、守りが堅く景春が援兵を送ったため一旦兵を引いた。小机城の矢野兵庫が出陣して河越城攻撃を図るが、太田資忠(道灌の甥)と上田上野介がこれを撃退した。
道灌は江戸城の指呼に勢力を張る豊島氏を早期に潰さねばならず、同年4月、上杉朝昌、三浦高救らの援軍を得た道灌は軽兵を発して平塚城城下を焼き払い、寡兵と侮って城を出て追撃してきた泰経・泰明を待ち伏せ、僅か50騎で200騎の豊島勢を打ち破り、泰明を討ち取った(江古田・沼袋原の戦い)。道灌は敗走した泰経を追って石神井城を囲む。泰経は降服を申し出るが、城破却の条件が実行されなかったため、道灌は城を攻め落とし、泰経は没落した。
同年4月、景春は五十子を出陣して利根川を渡り、顕定と定正の軍を鉢谷原で攻めるが撃退される。5月、道灌は顕定・定正と合流して五十子を奪回。用土原の戦いで景春を撃破。鉢形城を囲むが、成氏が8000騎を率いて出陣したため撤兵を余儀なくされた。
道灌は景春の本拠である上野国へ侵攻。塩売原で1カ月間対陣するが決着がつかず、同年11月に双方撤兵した。翌文明10年(1478年)正月、古河公方が簗田持助を通じて山内上杉家家宰長尾忠景へ和議を打診してきた。期待した景春の反乱が道灌の活躍によって短期間で逼塞せしめられたためであり、20年以上の戦いに飽いた成氏は幕府との有利な条件での和睦を望んでいた。
この和議の動きを妨害するように、同年正月に泰経が平塚城で再挙するが、道灌は直ちにこれを陥れ、泰経は敗走して小机城に逃れる。3月、景春が河越城へ攻め寄せるが定正と道真がこれを撃退した。
道灌は扇谷上杉家の本拠相模国の景春方を制圧すべく、同年3月に前年に攻略に失敗した小沢城を攻め落とし、同年4月に小机城を攻略した。城に匿われていた泰経は行方知れずとなり、名族豊島氏は歴史上から姿を消す。続いて道灌は相模国の景春方の諸城を駆逐。同年7月、景春の拠る鉢形城を攻略し、顕定の居城とした。
武蔵と相模を固めた道灌は、同年12月に和議に反対する古河公方の有力武将千葉孝胤を境根原の戦いで打ち破った。翌文明11年(1479年)甥の資忠と千葉自胤(千葉氏の上杉方)を房総半島へ派遣し、千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略させた。この戦いで資忠は戦死するが真里谷武田氏、海上氏を降し房総半島から反対勢力を一掃することに成功した。
古河公方との和睦交渉が続けられるが、景春はなおも北武蔵秩父郡、児島郡で抵抗を続けた。文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、景春は古河公方を頼って落ち延びた。
文明14年(1482年)、古河公方と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。成氏は幕府から赦免された。
[編集] 戦後
都鄙合体と景春の没落によって30年におよんだ関東の争乱は治まった。だが、この和睦は山内上杉家と越後上杉家が主導したものであり、扇谷上杉家の当主定正は不満であった。道灌も「太田道灌状」で自分や戦った武士たちに十分な恩賞がないと不満を漏らしている。
この戦いで活躍した道灌の威望は大いに上がった。それは主君である顕定・定正にとっては危険なことでもあった。
文明18年(1486年)7月、道灌は糟屋舘(神奈川県伊勢原市)で主君定正によって謀殺された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。
長享元年(1487年)、山内上杉家と扇谷上杉家は決裂し、長享の乱と呼ばれる両上杉家の抗争に突入する。没落していた長尾景春は扇谷上杉家に味方して再び山内上杉家と戦うことになる。
その争乱の最中の明応2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆国へ乱入して堀越公方を滅ぼし、さらに相模国へ進出。やがて、山内上杉家と扇谷上杉家は伊勢宗瑞を祖とする後北条氏によって滅ぼされることになる。
[編集] 参考文献
- 黒田基樹 『扇谷上杉氏と太田道潅』(岩田書院 、2004年) ISBN 4872943269
- 七宮ケイ三『 関東管領・上杉一族』 (新人物往来社、2002年)ISBN 4404029737
- 桑田忠親 『新編日本合戦全集 応仁室町編』秋田書店、1990年、ISBN 4253003796
- 杉山博 『日本の歴史 (11) 戦国大名』(中央公論新社、1974年)ISBN 4122000866
- 勝守すみ『太田道灌』(人物往来社、1966年)ISBN B000JAAQC8
- 『戦国合戦大全 (上巻) 』 学研、1997年、ISBN 4056015287
- 『クロニック戦国全史』 講談社、1995年、ISBN 4062060167
- 河合秀郎『太田道灌合戦録』(『歴史群像 2003年6月号』、学習研究社)