江古田・沼袋原の戦い
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江古田・沼袋原の戦い(えこだぬまぶくろはらのたたかい)は室町時代後期の文明9年(1477年)4月13日に武蔵国江古田・沼袋原(東京都中野区江古田町・沼袋町)で太田道灌と豊島泰経との間で行われた合戦。長尾景春の乱での戦いのひとつ。
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[編集] 背景
文明8年(1476年)、関東管領山内上杉顕定の有力家臣長尾景春が古河公方と結んで謀反を起こし、翌文明9年(1477年)正月に顕定および扇谷上杉定正が守る五十子の陣(埼玉県本庄市)を急襲した。顕定、定正は大敗を喫して敗走。(長尾景春の乱)
景仲、景信の二代にわたり関東管領家の家宰職を務めた景春の白井長尾家は関東で大きな勢力を有し、景春の挙兵に小磯城(神奈川県大磯町)の越後五郎四郎、小沢城(神奈川県愛甲郡愛川町)の金子掃部助、溝呂木城(神奈川県厚木市)の溝呂木正重、小机城(神奈川県横浜市)の矢野兵庫助など多くの国人、地侍がこれに呼応した。
南武蔵の名族豊島氏も景春に呼応して上杉氏に反旗を翻した。
[編集] 豊島氏
豊島氏は坂東八平氏の秩父氏の一族で平安時代に源氏の家人となり、前九年の役、保元の乱にも参陣した。源頼朝が挙兵するとこれに従い、鎌倉幕府の有力御家人となった。豊島氏は武蔵国内に練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など多くの庶流を配して室町時代になっても大きな力を有していた。「足利武鑑」によれば、その所領は豊嶋、足立、新座、多東の四郡2300余町歩、5万7500石に上ったと伝えられる。この時代、豊島氏は石神井城(東京都練馬区)を居城とし、当主は勘解由左衛門尉泰経であった。
古河公方足利成氏と関東管領上杉氏との享徳3年(1453年)以来の長期に渡る戦乱である享徳の乱では豊島氏は上杉氏に味方していたが、この乱を通じて武蔵国で大きく勢力を伸ばし岩槻城(埼玉県さいたま市)、河越城(埼玉県川越市)、江戸城(東京都千代田区)を築いた扇谷上杉氏家宰の太田道真、道灌父子との対立が豊島氏が景春に呼応した原因とされている。ことに豊島氏の領域近辺に江戸城を築いたことは豊島氏の権益を脅かしたであろうと考えられている。
また、関東管領家を補佐する山内家家宰職を務めた白井長尾家との政治的な結びつきを蜂起に至った理由とする説もある(黒田基樹駒沢大学非常勤講師の論考による)。
[編集] 合戦の経過
泰経は石神井城、練馬城(東京都練馬区)で挙兵。その弟の泰明は平塚城(東京都北区)で挙兵した。これにより、太田道灌の居城江戸城は河越城、岩槻城との連絡線を遮断されてしまった。道灌が景春の乱を平定するためには、なんとしても早期に豊島氏を潰す必要があった。
文明9年(1477年)3月14日、道灌は石神井城を夜討せんと策すが、来援の相模勢が多摩川の増水のため渡河できず断念。直ちに矛先を転じて、相模国の景春方掃討にかかった。道灌は相模勢と合流して、同月18日、溝呂木城を攻め、溝呂木正重は城に火を放って逃亡。小磯城の越後五郎四郎は降伏した。
続いて、小沢城の攻略にかかるが、守りが堅く容易に落ちない。そのため、道灌は河越城に甥の資忠、上田上野介を、江戸城には上杉朝昌(道灌の主君上杉定正の弟)、三浦高救(定正の兄)、吉良成高、大森実頼、千葉自胤を入れて武蔵の守りを固めさせた。景春方も後詰に動き吉里宮内、実相寺らが小山田要害(東京都町田市)を攻め落として牽制。
4月、小机城の矢野兵庫助が河越城を衝かんと出撃。同月10日に資忠、上田上野介と勝原で合戦となり、矢野兵庫助は重傷を負って撤退した。
同月13日、道灌は豊島氏討伐にかかった。軽兵をもって江戸城を出撃して泰明の守る平塚城の城下に火を放つ。平塚城救援のため泰経は石神井城、練馬城から出陣。道灌は兵を引く。寡兵とみた泰経は追撃にかかり、泰明も出撃した。
道灌は上杉朝昌、千葉自胤と合流すると、とって返し、両軍は江古田川と妙正寺川の合流地点、江古田、沼袋あたりで遭遇した。道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。
数においては豊島勢が勝り、緒戦は優勢だったが、道灌の巧みな用兵によって豊島勢は敗退して泰明は討ち取られた。『鎌倉大草紙』『永享記』によると道灌は僅か50騎で200騎の豊島勢に打ち勝ち、板橋氏、赤塚氏ら豊島勢150騎が討ち取られたという。
有名な道灌の足軽軍法により、一騎打ちの騎馬武者に軽快な足軽が集団で攻めかかったことが勝因であったと解説されることがあるが、実のところ道灌の足軽軍法は江戸時代の『太田家記』に名称が記されているだけで実態は不明である。
泰経は石神井城に逃げ込み、翌14日、道灌は愛宕山(旧地名・城山、練馬区上石神井三丁目)に陣を敷いてこれを包囲した。18日、泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経はこれを実行せず、偽りの降参とみなした道灌は28日に総攻めをしかけ、石神井城は落城した。泰経は夜陰にまぎれて逃亡した。
石神井城を陥落させ(記録にはないが、この時に練馬城も落城したと考えられている)、河越城との連絡線を回復して行動の自由を得た道灌は主君顕定、定正と合流して北武蔵、上野を転戦して景春を封じ込めることに成功。文明10年(1478年)正月に入って、古河公方が和議を打診してきた。
この和議を妨害するかのように、泰経が平塚城に拠って再挙する。正月25日に道灌は平塚城を攻め落とし、泰経は城をのがれて丸子(神奈川県川崎市)に陣をしくが、27日に道灌が迫ると丸子を捨てて小机城に逃げ込んだ。道灌は28日にこれを包囲し、4月11日に落城させた。泰経は没落して行方知れずとなり、名族豊島氏本宗家は滅亡した。
[編集] 戦後
道灌は各地を転戦して景春方を攻め潰し、文明12年(1480年)6月に景春の最後の拠点日野城(埼玉県秩父市)を落として、乱を平定した。文明14年(1482年)に古河公方との和議が成立して、30年近くに及んだ関東の争乱は終結した。
豊島氏の所領は道灌の有に帰し、ほとんど独力で乱を平定した道灌の声望は絶大なものとなった。
だが、これが主君顕定、定正の猜疑を生み、文明18年(1486年)、道灌は糟屋舘(神奈川県伊勢原市)で定正によって謀殺された。
[編集] 伝説
石神井城落城に際して、城主の泰経は家宝の黄金の鞍を白馬に載せ、これに乗って三宝寺池に入水し、次女の照姫も後を追って入水したという哀話が残っている。
史実では泰経は石神井城落城のときには死んでおらず、後に再挙している。
石神井城址は現在の石神井公園で、東京都練馬区では昭和63年(1988年)年以来、照姫をしのんで毎年「照姫まつり」が盛大に行われている。
[編集] 参考文献
- 黒田基樹 『扇谷上杉氏と太田道潅』(岩田書院 、2004年) ISBN 4872943269
- 桑田忠親 『新編日本合戦全集 応仁室町編』(秋田書店、1990年)ISBN 4253003796
- 練馬郷土史研究会 『練馬区の歴史』(名著出版、1977年)ISBN B000J8YO46
- 杉山博『豊嶋氏の研究』(名著出版、1974年) ISBN B000J9DKGI
- 勝守すみ『太田道灌』(人物往来社、1966年)ISBN B000JAAQC8
- 河合秀郎『太田道灌合戦録』(『歴史群像 2003年6月号』、学習研究社)