軍事戦略
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軍事戦略(ぐんじせんりゃく、military strategy)とは現代における戦略概念の一つであり、国家戦略(大戦略)の下部にあたる平時・戦時における軍事力の準備や運用に関する戦略である。政府レベルで策定され、国家の安全保障の方針がこの戦略で決定される。 この軍事戦略の下部にあたる戦略が作戦戦略(自衛隊では防衛戦略)と呼ばれるものである。さらに海軍戦略や空軍戦略に細分化する場合もある。
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[編集] 概説
軍事戦略とは国家のさまざまな戦略の中でも政府が決定する安全保障、軍事に関連する戦略を指す。具体的には平時における軍事力の準備計画や、戦時の軍隊の作戦方針がそれにあたる。この軍事戦略に基づいて軍隊の参謀本部は作戦戦略を策定し、戦略単位である軍団、師団・艦隊などを配備することとなる。財政や外交戦略とも深く関連するため、この上位概念として政府による国家戦略が定められ、それに順ずる形で他分野の戦略と整合させながら立案されていく。
[編集] 語源
佐藤堅司の著作である『世界兵学史話』(学問書院、昭和11年)によれば、元々西欧での戦略の言葉はギリシアのクセノフォンによって"strategia"と"taktitos"の用語(古代ギリシア語)を用いられるようになったのが最初だと考えられている。またギリシアの軍隊の司令官であったストラテゴス(Στρατήγος)からきており、機略、計略(英:Stratagem)という単語とも密接に関連しているとも考えられている。ヨーロッパでジョミニが軍事用語として使用し始めたことがきっかけとなり、英語辞典で"strategy"が登場するのは18世紀となる。用語として定着するまでには長い時間がかかった。
[編集] 構成
時代によって軍事における戦略は微妙にその定義が変化しているが、現代の主要国においては以下のような戦略レベルが確立されている。
- 大戦略とは生存や平和などの原則的な目的を踏まえ、政治や経済などの国内事情、国際社会や同盟国などの国外事情などから考えられる国益や目標を達成するための最も高いレベルでの戦略である。国家戦略とも呼ばれ、国の根本的な戦略として定められる。戦争指導はこのレベルに当たる概念である。
- 軍事戦略とは大戦略の下に策定される経済戦略や外交戦略など、厳密には軍事とは関係がない分野、ともごく一部と関わるレベルでの軍事力の準備計画、運用シナリオなどを政府レベルで策定する武力戦を想定した戦略である。核戦力といった、外交上においても取り扱いが難しい軍事力の運用の方針や、国際情勢の変化に対する軍隊の再編、仮想敵国の設定などがこの軍事戦略で決められる。
- 作戦戦略(自衛隊では防衛戦略と呼ばれる。作戦術とも呼ばれる)とは原則的方向性を決定する大戦略や軍事戦略とは違い、具体的に平時における兵力配備、戦時における部隊運用や兵站計画を定めた軍隊レベルでの戦略をさす。この段階で政府が策定に関わることはない。(作戦を参照)
- 戦術とは戦場の状況に応じて効率的な火力と機動力を発揮するために部隊や資源を指導・運用する術である。戦略の下位概念である。原則的、方針的な戦略とはその性質が根本的に異なり、戦術が上位戦略に影響を与えることはない。その内容は部隊規模、兵科、または地形に応じてさまざまに分かれる。(戦術を参照)
[編集] 歴史
古来より「戦略」という概念はさまざまに解釈されてきた。リデル・ハートは「戦略という概念ほどその意味が変化し、たびたびその定義が試みられ、またいろいろに解釈されてきた軍事の用語は他にない」と述べている。
世界最古の戦略は孫子の兵法にその基本概念が確認されている。開戦に踏み切る以前に、その戦争の利益や費用について慎重に考察することが重要であると論じられている。しかし、まだこの時点においては戦略と戦術が明確に区分されていなかった。
近代西欧の本格的な戦略思想はマキャヴェリが先駆者であると考えられている。彼は自著の戦術論において、戦争の目的を自国の意思を相手に強制することや、戦争の早期決着は戦闘によって達成できることなどを論じた。その後、ナポレオンは当時の軍事技術の発展やマキャヴェリの思想から大きな影響を受けている。彼らの思想や方法論からジョミニとクラウゼヴィッツは戦略を定義しようと試みた。
クラウゼヴィッツによれば、戦略とは戦争目的を達成するために戦闘を配分することである。即ち、部隊配置や兵站、攻撃地点の選定などがこれに属しており、兵器の生産を遅延ないし停止させることや、兵站を封じることもその手段のひとつとなる。こういう点からいって、戦術目標と戦略目標は異なったものとなる。戦略目標とは敵の生産力の拠点であり、これを攻撃することで継続的な交戦力を奪うことができる、といった戦闘の方法論に基づく戦略に重点を置いて論じている。 またジョミニも戦略とは作戦図上において戦争の計画をする方法論であるという立場をとっており、戦闘に注目した戦略を論じていた。参謀部と戦闘部隊の制度に軍隊を整理した。 クラウゼヴィッツたちの戦略思想はリデル・ハートによって批判される側面もある。つまり、ナポレオン戦争の研究に基づく戦略の定義が後の研究者によって単純化され、その目的が戦場の敵戦力の撃破と限定されてしまう、という批判である。
第一次世界大戦においてフランス宰相クレマンソーによって戦略は文民政治家によって策定される必要性が考えられた。戦争指導という概念もこの頃に出現し、後にリデル・ハートが戦略論において戦略を大戦略と軍事戦略に分類すること、また正面衝突の戦争を避けながらも弱点から敵を追い込む間接アプローチの戦略を提案した。またソ連のソヴィエト兵学における作戦戦略が戦術と軍事戦略の中位の概念として各国で導入されることとなった。
第一次世界大戦という総力戦の展開から、ドイツ参謀総長のルーデンドルフは政治は戦争指導の補助であるべきという軍事戦略と大戦略の逆転して考えた。これは第二次世界大戦の戦略思想にも影響を与えたと考えられている。
なお、明治期における日本海軍は、戦略のことを「敵と離隔してわが兵力を運用する兵術」と定義していた。陸軍においては大正12年、陸軍大学校の兵語之解において「戦争を計画し、その実施を監督し戦争行動そのものを統裁する」と定義した。昭和期にはいるとこれは改定され、「戦略は作戦の目的を定め、作戦目標、軍の機動する方向、連絡線を操縦して会戦へと結びつける方策である」とされた。このときから、日本軍における戦略とは、会戦を行うものとしてのみ認識されることとなった。
現在に至っては、目的を達成するための平時、戦時どちらにも通じる大戦略が確立され、その下に軍事戦略、作戦戦略、戦術という位置づけが進んでいる。
[編集] 海軍の戦略
海軍がその軍艦や砲の開発が進んで軍事力としての価値が高まり、また貿易の増加や植民地化が進行するにつれて海洋の重要性が増すにつれて、海軍の戦略についての研究が近代以降進められるようになってきた。海軍の戦略を始めて本格的に論じたのは18世紀のロシア海軍のフョードル・ウシャコフである。ウシャコフは戦略と海戦の戦術を明確に区分しないままに論じた。19世紀後半にはイギリスのコロム中将によってそれらが整えられ、「制海権」の概念が提唱された。さらにマハンの『海上権力史論』によってシーパワーの概念が提唱され、海洋に関わる戦略理論の基盤を構築した。ただし、彼が水陸両用作戦についてほとんど研究しなかったことや、戦艦至上主義となっている批判もある。マハンのような攻勢的な海軍戦略に対して、全く異なる戦略が1880年ごろから青年学派から提唱された。英国海軍のような戦艦を中心とした大規模な艦隊に対して真っ向から対決することの財務的なコストに注目し、潜水艦や機雷や巡洋艦を中心とした海軍を編成することの効率性を根拠に防勢的な海軍戦略を主張した。ロシア海軍や中国海軍などがこの思想に強く影響されている側面がある。
[編集] 参考文献
- 防衛大学校・防衛学研究会編『軍事学入門』(かや書房)
- 前原透監修、片岡徹也編集『戦略思想家辞典』(芙蓉書房)
- 防衛庁防衛研修所戦史室『陸海軍年表 付 兵語・用語の解説』(朝雲出版社、昭和55年1月15日)