鈴木大拙
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鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〔ていたろう〕、英字:D.T.Suzuki, 1870年10月18日 - 1966年7月12日) は、禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。1959年日本学士院会員、文化勲章。
100冊ある著書のうち、23冊が英語で書かれている。梅原猛曰く、「近代日本最大の仏教者」。同郷の西田幾多郎、山本良吉、藤岡作太郎とは石川県専門学校以来の友人であり、鈴木、西田、藤岡の三人は加賀の三太郎と称された。
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[編集] 学歴
- 1887年 石川県専門学校初等中学科卒業
- 1889年 第四高等中学校(現金沢大学)中退(予科卒業)
- 1891年 東京専門学校退学
- 1892年 帝国大学文科大学哲学選科入学
- 1895年 同修了
- 1930年 英語論文で文学博士号取得
[編集] 職歴
- 1889年 飯田町小学校教師(英語担当)
- 1890年 美川小学校訓導(1891年まで)
- 1909年 学習院講師(英語担当)
- 1909年 東京帝国大学文科大学講師(1916年まで)
- 1910年 学習院教授(1921年まで)
- 1921年 大谷大学教授(1960年まで)
- 1934年 大谷大学教学研究所東亜教学部部長
- 1950年代 コロンビア大学客員教授
[編集] 来歴
東京専門学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、東京帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していたベアトリス・レインと出会う。釈宗演より大拙の居士号を受ける(「大巧は拙なるに似たり」)。
1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスの経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。
1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住む。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』 (Eastern Buddhist) を創刊した(現在も同協会より刊行中)。
晩年は鎌倉に戻り、自らが1941年に創設した東慶寺の松ヶ岡文庫で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中国の胡適と禅研究法に関して討論を行い、また、日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年の間は、アメリカに住み、ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などで仏教思想に関する講義を行なった。墓所は金沢市野田山墓地の鈴木家墓所と鎌倉東慶寺境内にあり、すぐ近くに岩波書店初代店主、岩波茂雄の墓と西田幾多郎の墓があり、毎年命日である7月12日には大拙忌法要が行われる。
鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングの主催したエラノス会議に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。
鈴木が没した時、ニュースを読み上げるアナウンサーが原稿に禅と書いてあるのを蝉と読み違えて「蝉の研究で有名な鈴木大拙さんが亡くなりました」と読み上げたことは、全国に当時大きな反響を呼んだ。
西田幾多郎による大拙の人物評では「君は最も豪そうでなくて、最も豪い人かも知れない。私は思想上、君に負ふ所が多い」と『禅と日本文化』(岩波新書)の序で評されている。それは西田による友情の表現でもあろう。
大拙没後鈴木学術財団が設立される。
[編集] 著書
- 鈴木大拙全集 全30巻、別巻2巻。
- 禅思想史研究 全4冊
- 禅と日本文化
- 日本的霊性
- 禅と精神分析
[編集] 参考文献
- 鈴木大拙とは誰か(上田閑照・岡村美穂子編、岩波現代文庫、2002)