香港の教育史
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香港の教育(ほんこんのきょういく)の歴史宋代の資料にまで遡ることができる。イギリスが香港の割譲を受けた当初は、香港政府は教育政策の実施に積極的でなく、その教育政策は植民地官員の育成に重点を置き、イギリスの国威発揚に主眼を置くものであった。第二次世界大戦後香港の人口は急速に増加し、それにつれて教育の整備を求める声が高まった。植民地政府は国際顧問による教育問題の研究を通し、義務教育制度へと移行していった。香港返還後は香港特別行政区政府は教育制度改革に着手し、現在その方法を巡り議論が続いている。
目次 |
[編集] イギリス領以前
香港の記録に残る最初の教育機関は錦田の力瀛書院であり、現在の広東省内の同規模の書院より早い時期に成立している。この書院は北宋の進士鄧符協が1075年に建てたものであり。清代の『新安県志』に「桂角山(今錦田)在県東南四十里,宋代鄧符協築力瀛書院,講学於其下,今基址尚存。」と記録されている。鄧符協は講義を行なう以外に、広東省の文士と交流を深め、また経典を収めた書室を立てていた。
清初、香港は広州府新安県に帰属していた。域内の屏山、錦田、上水、龍躍頭等の地域では子弟教育に熱心な地域であり、科挙へ積極的に参加していた。彼らは地域に書室や学社、各氏族の宗廟、家塾などを設け、子弟の功名牌匾をかけて科挙合格を記念するなど積極的な教育が行なわれていた。
書院、書室の多くは新界に設けられ、現在も当時の面影を残すものとして錦田水頭村の周王二公書院、[[[二帝書院]]、屏山坑尾村の覲廷書室、粉嶺の善述書室、大埔泰郷の善慶書室等があげられる。また家塾として用いられた祠堂としては新田的麟峰文公祠、八郷の梁氏宗祠と郭氏宗祠、元朗廈村の鄧氏宗祠、上水の廖萬石堂、応龍廖公家塾と応鳳廖公家塾等がある。
また香港島では住民の多くが漁民と承認であり、大規模な学舎の建設が行なわれ、イギリスに割譲される1841年以前、全島に5箇所の私塾が設けられていた。これらの私塾では1名の教師に多くの学生が師事する方式での教育が行なわれており、教師は直接学生から脩金と称す学費を徴収していた。講義の内容は中国の伝統的な経典であった。その後1843年までに香港島の赤柱、石排湾、黄泥涌、香港仔等に8~10ヶ所の私塾が開校している。
香港の書院、書室は中国古代の教育制度により設立されたものであり、私塾の一部をなしていた。これら私塾を開いた者は三種類に分類され、一つ目が裕福な家庭が招聘した家庭教師であり、家塾と称されるもの、二つ目が教師が自宅で教育を行なった塾館や教館と称されるもの、三番目が地方の氏族が開いた私塾や義塾としょうされるものである。講義内容は初級と高級の二段階であり、初級では児童に文字と啓蒙教育を行なうものであり、テキストとしては『三字経』、『百家姓』、『千文字』などが用いられていた。高級過程では『四書五経』を初め、科挙対策として八股文などが用いられていた。
その後時代の変遷とともに、これら書院や私塾は次第に郷村学校或いは公立学校へと変遷していく。
[編集] 植民地時代初期

1841年、香港はイギリスの植民地となった。その初期はイギリスは香港において正式な教育制度は整備せず、個人と教会による教育が行なわれているに過ぎなかった。これは香港政庁が資金と人材不足により、教育委員会とその後の教育局はイギリス国教会のショージ・スミスとイギリス伝道会のジェームス・レッジにより実質的に運営されていたことに起因する。しかし1865年、教育司署が成立し教育行政権を回収すると、旧来の私塾は香港政庁の資金援助を受け、また近代的な教育内容に改編さていった。この過程で香港政庁は英語教育を積極的に展開し、香港人にイギリスへの帰属感を萌芽させる教育政策を採用していた。
最初に香港で学校を開設した外国組織はモリソン教育教会(Morrison Education Society)である。1839年にマカオで馬礼遜(モリソン)書塾を創設し、1842年に書塾を香港に移転させ名称を馬礼遜書院と改称したが、1856年に教育事業を停止している。香港で最も歴史を有す教育機関としては1851年に西営盤に開設された聖保羅書院である。
1841年から1858年の期間に香港に進出した西洋の宗教団体は6団体ある。先に挙げたモリソン教育協会以外に、アメリカのバプテスト教会、倫敦伝道会、アメリカ公理会、イギリスの聖公会とカトリック教会である。これらは香港政庁の支持を獲得し教会学校を次々と設置、伝教を牧師・神父養成に主眼を置いた教育を開始した。1877年、香港政庁は『香港補助書館計画』を策定、公費補助を受ける各学校での世俗教育は4時間を下回ることを禁止した。この計画により宗教教育重視の教育内容が改められることとなった。1896年までに香港の英語学校は101校に達している。
1845年、華民政務司は8校の中国語家塾に対し香港政庁により毎月10元の資金支援を提案した。香港総督のジョン・フランシス・デイビス]]en:John Francis Davisはこの提案をイギリス本国に報告、イギリス殖民地省は現地での教育事情の調査を命じた。これを受け1847年に香港政庁内に調査委員会を組織、ビクトリア・シティー、香港仔、赤柱の学塾の情況を調査し、その結果とともに教育資金支援を提言した。同年8月、香港政庁は巡理司に委任し、華民政務司と従軍牧師による教育委員会を組織、家塾に対する資金支援と監督に従事することとなった。同時に資金支援を受ける家塾を公立化する製作を実施、1855年には官立の中国語家塾を皇家書館(国家義学とも)を設立、毎月5元の資金援助と共に、1857年には『皇家書館則例』を制定して管理を行なった。
1860年、教育委員会は教育局と改編される。同年7月には『理雅各教育革新計画』を施行、ビクトリア。シティー内の全ての皇家書館を閉鎖、学生を中央書院に集中させ、ヨーロッパ人校長による英語教育の実施を行なった。この中央書院(当時は国家大書院と称した)は1862年に正式に開校、香港最初の公立中学が誕生することとなった。この学校の校長は教育局の指導を受け、香港各地の書館を監督することとなった。この政策の施行は植民地政府が教育政策を重視し、また公立学校での教育を通して青少年に強い影響を与えることを期待したことと説明されている。
1863年、香港政庁は郷村の書館を無償で現地に払い下げ、住民による運営へ政策転換した。対象となった代表的なものとしては東華医院が1880年に開いた文武廟義学などがあげられる。1890年時点で香港には6ヶ所の義学が設立されている。
香港に於ける専門教育の開始は1880年、当時の香港提督ジョン・ポープ・ヘネシーの下で成立した委員会が中央書院を大学専科学校への改編が検討された。しかしこの計画は大規模過ぎ、また当時の香港で必要とした商業関連人材の育成の目的に合致せず、計画が実現することはなかった。その7年後、18887年10月、何啓は資材を投じて設立した雅麗氏委員内に香港西医書院を設立、5年学制の香港最初の専門学院を設立した。香港西医書院は1912年に香港大学が創設される際に香港大学医学部として改編され現在に至っている。
また香港の英語教育もこの時期に制度が確立している。1858年、教育委員会は英語教育を推奨し、中国系住民とイギリス系住民間のコミュニケーションの向上を図り、イギリス人による香港統治の利便性を向上させる目的であった。当時の英語書院は全て英語で教育を行い、英語教科書を採用していたが、これに加え中国書院でも英語を必須科目とした。1877年に着任したヘネシー総督は、その就任時に政治経済の必要から、全ての政府学校で英語教育を実施すると所信表明を行なっている。
[編集] 20世紀初
20世紀初頭、辛亥革命に続き中華民国が成立した影響により、大量の知識人と清朝官人が香港に移住し多くの中国語学校が設立された。これらの学校では中国語による教育を行い、中国文化を教授し、また五四運動による新思潮が流入した。イギリス政府は香港の教育問題に関心を持ち、1935年5月にはバーニー(E.Burney)視察官を派遣し、イギリス国会に対し報告書を提出させている。報告書では政府は一部上流階級子女に限定した教育政策を改め、香港で多数派の中国人に対する教育の必要性を説き。同時に中国語教育と初級教育の整備を提言した。香港政庁は英語教育とエリート教育を保持したままこの提言を受け入れている。また民族主義の影響を受け、香港ではこの時期から次第に教育の現地化政策が採られるようになっていった。
香港政庁の教育の現地化は中国語学校の設立と中国語教育を柱としていた。1912年9月、教育局は漢文教育組(Chinese Vernaculate Education Board)を組織し中国語教育の発展と助成業務を担当した(翌年廃止)。また1920年には漢文師範学堂を開設し、中国語教員の育成に着手した。漢文師範学堂は当初男子校であった。女子に対するものとして1925年に庇理羅士女子中学が開校している。1926年は新界への教育普及が見られ、新界での小学校教師を養成する目的の官立大埔漢文師範学堂、同年3月1日には官立漢文中学が設立され、漢文師範学堂と合併している。これらの師範学堂は中国語による授業を実施していた。また1913年には香港科技専科学校の皇仁書院に漢文師資班が設置され、これらを総称して「漢文師範」と称されたが、現実として漢文師範では人材不足から教員養成は順風満帆ではなかった。その後上述のバーニー報告書及び、1937年の裁判官リンドセル(R.E. Lindsell)が会長を務める委員会の提言に基づいた教育政策として1939年に香港師資学院を設置している。
漢文師範以外、一般人に対する中国語の教育機関の整備もこの時期大幅な改善を見た。著名なものとしてはインド華僑のカドリエ(Ellis Kadoorie)と紳商の劉鑄伯が開校した育才書院、西南中学、民生書院などがある。これら中国語学校が大量に出現したことで、香港には2種類の中学制度が存在することとなった。辛亥革命以降、中華民国教育部は六三三の教育制度を発布し伝統的な家塾制度を廃止した動きに併せ、1928年には香港でも六三三の学制が施行され中華民国への進学に対応させ、また同時に英語学校ではイギリスの教育制度を採用し、予科過程を採用していた。また私立中学では1931年より広東省教育庁の高初中会考に参加できるなど特殊な地位を確立していた。この二重制度は1965年に香港中学会考に統一されまで存続した
また香港の人口が急増し統治機構の人材養成を行なう必要に迫られ、同時に中国内地の影響を強く受けることとなった。フレドリック・リガード総督は1908年に聖士提反書院の卒業式の中で新に大学を設置する意向を表明、1912年に香港初の大学として香港大学が開校した。開講当初は医学部と工学部のみであったが、後に文学部や教育学科などが次第に整備されていった。当時の主な教授は外国からの招聘教官であり、中国語系のみ許地山等の中華系人材が問う様荒れていた。1911年に交付された『香港大学堂憲章』では、香港大学は香港政庁に隷属するものでなく、イギリス政府に直接帰属すると既定され、校長は総督が任命し、実際の職務は副校長が担当、理事会によって意思決定がなされると定めれられている。開校時はイギリス政府は年間300ポンドのみの財政支援を行い、建築費用は各界の寄付により資金が調達された。大学からは多くの官僚が輩出されている。
この時期に整備された教育関係の法律としては1913年に成立した『1913教育条例』がある。これは全ての補助資金や私立学校は香港政庁の監督を受けることになり、違反者には罰則を科すものであった。
[編集] 日本統治時期
太平洋戦争が勃発した直後の1941年12月25日、香港は日本に降伏し日本の軍政下に置かれた。軍政開始直後、香港の大部分の学校は閉鎖されることとなった。その後日本政府は香港における教育目標として大東亜共栄圏の理念に基づく教育、日本語教育を推進すると共に、短期専科学校を設立し香港における人材育成に主眼を置く政策を発表した。特に専科学校はそれまで香港で不足していた専門教育を担当し、人材育成に大きな貢献をしている。1942年には教員講習所を開設し、軍政開始後から続く教員不足問題を解決し、1943年3月には海員養成所(航海科及び機関科)を設置し、日本軍の海上輸送に十字可能な人材育成に着手している。その他同年5月には日本語教員育成を目的とした日語教員講習所を設置、10月には農業監督者を育成する目的の農事伝習所が相次いで開校している。
また占領直後閉鎖された各種学校であるが、民政に移行した1942年5月に光華、西南、知行、信修、港僑、湘父、鑰智、麗沢、華仁、聖保禄、培正、九龍塘、徳貞、徳明、聖保羅女校、聖瑪利、聖類斯工芸院、香港仔児童工芸院、中國児童書院の20校で授業が再開された。授業内容に週4時間以上の日本語が必須になった他、英語の授業が廃止され、イギリスの教育制度に代わり日本の教育制度が実施されることとなった。これら香港の教育行政を実施するため、1943年に民治部に文教課が設置され、初代課長に長尾正道を任命、同時に『私立学校規則』及び『日語講習所規程』を制定している。
戦前の香港における最高学府であった香港大学及び羅富国師範学院は1946年まで授業が停止された。また日本独自の学校としては1943年5月に東亜学院が現在の西営盤にせつりつされ、政府機関や金融機関、商業関係の人材育成が行なわれた。
1945年3月、文教課は第1課と改編され、福簡定朝が課長に就任したが、まもなく終戦を迎え香港はイギリスの統治権が回復し、日本の教育制度は全廃された。
[編集] 第二次世界対戦以降
1945年、香港がイギリスに返還されると教育事業の再建が行なわれた。しかし戦後の混乱と国共内戦により中国から香港に大量の避難民が流入したことで、十分な教育を実施することが出来なかった。香港政庁は1947年に『学校応守規則』を施行し学校管理を強化させ、また1950年には『十年建校計画』を発表、10年以内に十分な小学校及び中学校を整備する目標を掲げた。
これら香港政庁の施策のほか、戦後の香港では民間団体も教育事業に着手している。慈善団体、宗教団体、労働者団体、同郷会などが中心となり義学や識字班と称される教育施設を開設し、無償または極めて廉価な学費による教育を実施し、青少年へ教育機会を準備した。またこの時期には私立学校や北京左派系の学校なども次々と新設された。
1950年代になると香港の人口は再び急速に増加、それに対応すべく1951年12月に小中学校の整備計画を発表した。この段階ではイギリスの影響力を全面に出した英語教育を重視した内容となっている。続いて1955年8月には『小学拡展的七年計画』を発表、小学校を大規模に拡充する施策を実施している。1965年6月に発表された『香港教育政策白書』によれば80%の児童が政府が支援する小学校に通学し、約15%の小学生が各種中学校に進学すると報告されている。
1970年10月、デイビット・トレッチ(David Clive Crosbie Trench)総督は『施政報告』の中で小学校を義務教育化することを表明、同時に『入学令』を制定し、児童を就学させない保護者に対する罰則を設けた。後任のマリー・マクレホース総督が就任すると中学校までの義務教育化が推進されることなり、1977年10月5日に9年間の無料教育が実施され、中学入学の際の入試が初めて撤廃されることとなった。
このように小中学校の教育制度が整備された香港であるが、高級中学以上の高等教育に関しては1990年代以前は非常に限定されてものであった。この時期の新たな高等教育事業としては1951年に開設された香港中文大学が挙げられる。アレキサンダー・グランスマン(Alexander Grantham)総督がケスウィック(Keswick)に委託して香港の高等教育に関する調査を行なった結果に基づき設立された大学である。1950年代に香港では一部香港浸会学院専上学院などの高等教育機関としての専上学院が設立されていたが、大学と称するに不足する内容であった。1959年、ロバート・ブラウン・ブラック(Robert Brown Black)総督がフルトン(J. S. Fulton)に香港を視察させ、その結果香港大学に中文部を設置する提案がなされたが、この提案は香港大学側から拒絶された。そこで中国語書院である新亜書院、崇基学院、聯合書院を統合し中文大学として組織することが計画された。中文大学の設立準備は1961年6月より関祖堯を中心に着手され、1963年10月17日に正式に開校した。高級中学は1977年に『高中及び専上教育青書』を発表し進学率を50%に向上させ、1978年10月の『高中及び専上発展白書』では更に進学率を60%に向上させる計画が提出された。
またこの時期は香港史上初めての師範教育及び職業教育が整備された期間でもある。香港政庁は1951年9月に葛量洪師範専科学校が設立され、小中学教員の育成が行なわれるようになり、1960年になると更に柏立基師範専科学校が設置されている。職業教育では1957年12月に1937年に成立した香港工業専門学院紅磡に新校舍を建設、1972年3月24日に香港理工学院と改編された。1974年の教育白書により工業学院の新設が政策方針と決定されると、1969年に成立していた摩理臣山工業学院以外に,教育司署於は[1975年]]に葵涌工業学院及び観塘工業学院を、1976年に黄克兢工業学院を、1979年に李恵利工業学院が、また香港訓練局の提言の下に1976年8月17日に建造業訓練局が、10月19日に製衣業訓練局が新設された。
[編集] 主權移交前
面臨主權移交,中英兩國領導人一致同意透過外交途徑解決香港問題。1984年,兩國簽署《中英聯合聲明》,確認中華人民共和國從1997年7月1日起恢復對香港行使主權。自此,香港進入回歸的過渡期,教育發展亦不例外。這個時期,在各方環境因素的配合下,香港的教育得到迅速的發展,尤其在專上教育和教育行政方面。
1981年6月,港府發表《香港教育制度全面檢討》報告書[1],為來港的國際顧問團提供參考資料。至1982年11月,國際顧問團[2]完成考察,發表《香港教育透視》報告書[3];雖然沒有新意,但因為對香港的教育政策作出了可觀的評估而獲得教育界的好評,並為港府所接納。在七十年代末實行九年免費教育後,人們對教育的需求也相對的增加,高中的入學率不斷的提高。公立學校的學位在數字上仍然維持著1978年發表的白皮書的60%,但很多學生在中三後都轉到私立學校繼續升學,1980年時的毛入學率就已經超過90%。而事實上,根據政府教育統籌委員會的統計,1983年高中的純入學率亦已經達到了84.6%[4]。因此,根據國際顧問團建議而成立的教育統籌委員會在其第一號報告書[5]中就因勢利導將政府資助高中學為提高到84.6%[6],全面普及了高中教育;預科的學位則維持在高中學位的四分之一。
可是,隨著高中普及教育的推行,預科和大學入學之間就形成了嚴重的瓶頸。1981年,大學學位就只能滿足2%的適齡青年。根據1978年的白皮書,往後十年的高等教育學位每年只能維持3%的增長,進度非常緩慢。到80年代中期,港府在其財政預算中透露,將逐年增加大學入學率,並在2000年達到14.5%。1988年,港督衛奕信突然在其施政報告中宣布加快高等教育的步伐,把14.5%目標提前到1994年,2000年則定為18%。1989年六四事件後,港督又再加快步伐,宣布把2000年18%的目標提前到1994年實現。當年的入學率只有6%,換句話說就是要在五年內把入學率提升三倍。為了實現這目標,港府除了增加兩所大學的學位外,還計劃興建香港科技大學作為香港的第三間大學。八十年代末的高等教育加速政策,普遍認為是商界的催促和政治的考慮而衍生出來的。商界擔心在1997年後,人才流動性減低會導致人才短缺,因此希望香港能自給自足;而港府經過六四事件的衝擊,也明白到民主發展要依靠高等教育,於是高速發展高等教育。而在1993年,香港理工學院、城市理工學院和香港浸會學院更獲升格為大學。這樣的政策就造成了供過於求的現象,也為香港帶來了大學質素和畢業生出路等等的問題,是90年代至今也要面對的主要問題。[7]
值得注意的是,職業教育在八十年代也有相當顯著的發展。1982年2月,香港訓練局改組為職業訓練局,並在其下成立一個由勞工處中的訓練部門(主要負責職業訓練中心和學徒訓練計劃)和教育署中的工業教育部門(主要負責工業學院)合併而成的工業教育及訓練署。職訓局隨後在原有的五間工業學院的基礎下,再成立了三間工業學院,分別是1986年創辦的屯門工業學院和沙田工業學院,以及1988年建立的柴灣工業學院。除此以外,港府更成立了一所繼香港理工學院後的第二所專上理工學府。香港城市理工學院於1984年10月22日正式開幕,開設會計、商業和管理、語言、社工、電腦和數理等六個學系。而為了培養藝術人才,港府亦於同年創立香港演藝學院,設舞蹈學院、戲劇學院、音樂學院和科藝學院。
1990年11月22日,教育統籌委員會發表第四號報告書[8],其中提到了「學習目標及目標為本評估」(TTRA)的建議,為90年代教育政策的一大爭議。在建議推出後,教育署計劃在二十間小學進行試驗,但得出的調查指三分之一的學校認為計劃未如理想,教育署遂提供支援。因為教育界的巨大反響,教育署在1993年4月23日宣布押後計劃,並成立諮詢委員會。1994年10月20日,教育署公佈推行「目標為本課程」(TOC)的時間表,決定1995年再在七十間小學的一年級試驗,並於2000年9月拓展至整個小學階段。教育界對這個計劃意見仍然甚多,認為計劃對教學並沒有多大的改善,也只會增加教師的工作量,要求推行教育改革。[9]
在教育決策方面,經國際顧問團的建議而成立的教育統籌委員會紓解了一些七十年代末以來教育界的反政府情緒。1986年立法局改組,首次出現由選舉產生的代表,教協主席司徒華因此代表教育界進入了政府架構,港府後來更委任他進入教統會。至90年代,政黨的影響力越來越大,扭轉了政府一直以來對教育的主導性。政黨可以左右立法局的討論,並利用財政問題改變教育政策的方向,1991年否決津貼中學參加「直接資助計劃」就是個好例子。同時,政黨也可以透過立法局獲得大量的政府政策資訊,在擁有權利和資訊的優勢下,政黨對教育政策的影響就非常大。
[編集] 主權移交後
1997年7月1日,香港正式回歸,根據《基本法》實行港人治港、高度自治,同時保障實行原來的教育制度,並由特區政府在原有的教育制度下發展教育[10]。行政長官董建華在其每年的施政報告中都用大量篇幅解釋教育政策和措施,並著手推行教育改革。
為了回應董建華的教育改革措施,教育統籌委員會於1998年開始進行教育檢討,並於1999年開始分階段發表諮詢文件。教統會首先在1999年1月22日發表《廿一世紀教育藍圖--教育制度檢討:教育目標》諮詢文件[11],提出了21世紀香港的整體教育目標和各個學習階段目標的建議。這是特區政府首份大型教育諮詢文件,教育界和社會都有熱烈的反應,並普遍支持改革。同年9月22日,教統會把諮詢文件的意見收集整理後,修訂教育目標,發表了第二階段的諮詢文件《教育制度檢討:教育改革建議--終身學習 自強不息》[12]。這份文件主要建議實施九年一貫「大直路」普及基礎教育、合併會考和高考、取消文理分科、取消學能測驗、大學互通學分等。至2000年5月8日,教統會繼續發表第三階段的諮詢文件《教育制度檢討:改革方案--創造空間 追求卓越》[13],明確提出了改革學制架構、課程、評核方法和學習階段銜接的建議,進一步推進教育改革。經過三個階段的諮詢,教統會於同年9月28日發表《香港教育制度改革建議--終身學習 全人發展》報告書[14],以基礎教育為核心提出九個重點改革項目,包括小一和中一入學機制,以及高中和大學學制改革。
而其中最為爭議的就是學校課堂語言的問題了。港府早回歸初期便強調母語教學,要在1998年全面落實,但准許一些學校向教學語言指引評審委員會申請豁免,100間中學達到要求可以繼續運用英文作為教學語言。而同時也有24間中學落敗,其中20間上訴,期間批評審議不公平,缺乏透明度,並作出抗議。1998年3月13日,20間上訴中學的其中14間得直,特許使用英文為教學語言的中學數目增至114間,其餘300多間中學則必須使用母語教學,並承諾三年後檢討。可是,三年期滿後港府卻宣布延遲三年再作檢討,至2003年檢討仍未開始,最終才落實在2009年進行檢討。母語教學的政策帶來不少問題,其中最為顯著的是標籤效應,獲批准使用英文作教學語言的中學在這政策中彷彿成了名校,家長普遍追捧這類中學,以子女入讀英文中學為榮。此外,教育界普遍也對母語教學的成效意見分歧,有些認為母語教學能加強學生學習的能力,有些則擔心政策下香港學生的英文水平會有所下降。2003年8月,中學會考放榜,中中生僅有10%考生有進步,其餘則欠佳,激發社會大規模對母語教學未能提升英文水平的討論。
此外,教師語文能力評核(俗稱基準試)的推行也引起軒然大波。教育統籌局在2000年5月根據教統會於1995年12月發表的第六號報告書[15]中提出的「為所有教師訂定基本語文水準」政策擬定具體做法,教師工會發起教師聯署抗議和罷考,並組織遊行集會。教統局局長在聽取教師和多個教育團體的意見後,檢討修訂有關政策和措施,並延至2001年3月正式舉行基準試。其後的基準試,特別是英文科,合格率普遍偏低,而未達標的教師則必須在2005/2006年度達標,否則就會面臨調職甚至失業。這項考試被教師們抗議為針對年長的語文教師而設,增添了教師的壓力;而社會人士和教育界人士也批評考試透明度低,對中小學的語文教師「一刀切」。
在學制方面,港府亦計劃實行「三三四」學制,即初中三年、高中三年、大學四年;因應學制改革,多個新高中科目也會同時推出。但教育界擔心改制後的新課程由於未必能與海外中學畢業證書接軌,而國際間也尚未有一個普遍通行的預科文憑標準,使將來學生到海外升學時可能會有認受性的問題。港府又鼓勵各大學增辦副學士課程。根據2001年的統計,八間高等院校的副學士課程、高級文憑課程和其他非學位課程的學生總人數多達13,213人。但現時的學士學位只有800多個可供副學士畢業生報讀,也令教育界擔心副學士學生升學所遇到的瓶頸問題。[16]
除以上爭議外,小班教學、教師工作量、大學合併、大學資源、優質教育基金的審批等等均是激烈的討論議題;終究也是因為特區政府推行教育改革的步伐過急,機制尚未完善,而港府也未有充分諮詢以及解決與教師之間的矛盾而造成的。在回歸後,教師因為壓力過大而自殺的案件也比回歸前的比率要高,反映了教改進程對教師的龐大影響。在往後的日子,教育仍然是特區政府要面對的重要課題。
[編集] 參看
- 香港歷任教育首長
- 香港教育
[編集] 參考文獻
- ^ 報告書全文見 http://www.emb.gov.hk/FileManager/TC/Content_689/edsys_c.pdf 。
- ^ 顧問團成員包括英國的John Llewellyn、美國的Michael Kirst、德國的Karl Roeloffs和澳洲的Greg Hancock。
- ^ 報告書全文見 http://www.emb.gov.hk/FileManager/TC/Content_689/perspe_c.pdf 。
- ^ 見教統會第一號報告書2.26段。
- ^ 報告書全文見 http://www.emb.gov.hk/FileManager/TC/Content_689/ecr1_c.pdf 。
- ^ 見上報告書2.10段。
- ^ 王賡武:《香港史新編》,473和483-484頁,香港三聯書店,1997。 ISBN 962-04-1396-2
- ^ 報告書全文見 http://www.emb.gov.hk/FileManager/TC/Content_689/ecr4_c.pdf 。
- ^ 參看周偉文:〈從學習綱要看目標為本數學〉,香港大學學課程學系。
- ^ 參考《香港特別行政區基本法》第六章第136和137條。
- ^ 文件全文見 http://www.e-c.edu.hk/online/on4_1st3.html 。
- ^ 文件全文見 http://www.e-c.edu.hk/online/on4_2nd2.html 。
- ^ 文件全文見 http://www.e-c.edu.hk/online/on4_3rd3.html 。
- ^ 報告書全文見 http://www.e-c.edu.hk/reform/annex/Edu-reform-chi.pdf 。
- ^ 報告書全文見 http://www.emb.gov.hk/FileManager/TC/Content_689/ecr6_c_2.pdf 。
- ^ 參看關注副學位大聯盟:升學樽頸的根本問題。
[編集] 相关书目
- 阮柔:《香港教育:香港教育制度之史的研究》,香港進步教育出版社,1948。
- 方美賢:《香港早期教育發展史》,香港中國學社,1975。
- 邱小金:《香港教育發展:百年樹人》,香港市政局,1993。 ISBN 962-703-929-2
- 明基全:《教不倦:新界傳統教育的蛻變》,香港區域市政局,1996。 ISBN 962-721-321-7
- 齊紅深:《日本侵華教育史》,北京人民教育出版社,2002。 ISBN 7-107-18321-4
- 陸鴻基:《從榕樹下到電腦前:香港教育的故事》,香港進一步多媒體有限公司,2003。 ISBN 962-832-651-1
- 吳灞陵、吳國基:《香港年鑑》,香港華僑日報社,1947-1994。
- 香港政府新聞處:《香港年報》,香港政府印務局。
- Anthony Sweeting: Education in Hong Kong Pre-1841-1941: Fact and Opinion (Materials for a History of Education in Hong Kong), Hong Kong University Press, 1990. ISBN 962-209-258-6
- Anthony Sweeting: Education in Hong Kong 1941 to 2001: Visions and Revisions, Hong Kong University Press, 2004. ISBN 962-209-675-1
- 操太聖:香港教育制度史研究(1840-1997)。
- 陸鴻基:香港辦學制度回顧,原載香港《思》神學雙月刊第92期,2004年11月。
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