遠山景元
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遠山 景元(とおやま かげもと、寛政5年8月23日(1793年9月27日) - 安政2年2月29日(1855年4月15日))は江戸時代の旗本で、天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を勤めた人物。テレビドラマ『遠山の金さん』のモデルとして知られる。正式な名のりは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または、遠山金四郎景元(とおやま・きんしろう・かげもと)。
[編集] 人物
幼名は金四郎。公職についてからは、従五位下に叙し、大隅守から左衛門少尉に遷任。 明知遠山氏の分家六代目にあたる人物である。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。
青年期は複雑な家庭環境から家を出て、町屋で放蕩生活を送るが後に帰宅、家督相続後、勘定奉行、町奉行に就く。天保の改革の実施に当たっては、強行派の南町奉行の鳥居耀蔵や老中水野忠邦と対立しながらも様々な政策を実施する。水野忠邦が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して、浅草猿若町への小屋移転だけにとどめた。すなわち、この遠山の動きに感謝した関係者がしきりに遠山を賞賛する意味で『遠山の金さん』ものを上演したのである。鳥居や水野との対立が遠山イコール正義、鳥居イコール悪役を作り上げた(もっとも、鳥居はそれ以前より民衆の評判は悪かった)。
天保14年(1843年)、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、当時は閑職となっていた大目付になる(地位は上がったが実質的には名ばかり)。2年後、逆に遠山から水野への讒言によって(ただし、水野自身も自分をかつて失脚させた鳥居を退けようとしていたため、共犯関係にあったものと推測される)鳥居が失脚し、南町奉行として返り咲いた。同一人物が南北両方の町奉行を務めたのは、極めて異例のことである。その後、水野の後を受けて政権の地位に座った阿部正弘からも重用された。
嘉永5年(1852年)に隠居すると、剃髪して帰雲と号し、61歳で死去。
墓所:東京都豊島区西巣鴨の本妙寺(江戸時代は文京区本郷にあった)。
[編集] 「遠山の金さん」を巡る諸説
青年期の放蕩時代に彫り物を入れていたといわれる。有名な「桜吹雪」である。しかしこれも諸説あり、「右腕のみ」や「桜の花びら1枚だけ」、「背中に女の生首」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。また、景元は長年痔を患っており、馬での登城が非常に困難となり、幕府に対して駕籠での登城を許可してもらうよう申請し、受理された文書が残っている。(景元の身分では駕籠での登城は許されていなかった為、疾病を理由に申請した)。
遠山の死後、講談・歌舞伎で基本的な物語のパターンが完成し、陣出達朗の時代小説『遠山の金さんシリーズ』などで普及した。現代ではドラマが製作された影響を受け、名奉行として世間に広がり大岡忠相と人気を二分することもあるが、ドラマのような名裁きをした記録はほとんどない(もっともこれは大岡忠相にも言えることである)。
荒俣宏の小説帝都物語の前日談帝都幻談にも主人公の一人として登場している。
[編集] 江戸幕府役職履歴
- 天保8年(1837年)
- 8月20日:小普請奉行より作事奉行に異動
- 天保9年(1838年)
- 2月12日:作事奉行より勘定奉行・公事方に異動
- 天保11年(1840年)
- 3月2日:勘定奉行より江戸北町奉行に異動
- 天保14年(1843年)
- 弘化2年(1845年)
- 3月15日:大目付から江戸南町奉行に異動
- 3月24日:南町奉行を辞し、寄合席となる
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