アナトーリイ・ステッセリ
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アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセリ(またはステッセル)(ロシア語:Анатолий Михайлович Стессель;ラテン文字転写の例:Anatolii Mikhailovich Stessel、1848年7月10日 - 1915年1月18日)は、ロシア帝国の軍人である。1904年からの日露戦争においては旅順要塞司令官。旅順攻囲戦で日本陸軍の乃木希典率いる第三軍と戦った。陸軍中将。
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[編集] 経歴
サンクトペテルブルク出身。1866年、パブロフスキー士官学校を卒業後、露土戦争時には連隊長、義和団事件(1899年)では第3東シベリア狙撃旅団長を経て、1903年8月に旅順要塞司令官に任命される。1904年8月から第3シベリア軍団長。
旅順の戦略的重要度を認識していたロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキン大将は、要塞戦術の専門家であったスミルノフ中将を後任として派遣するが、ステッセルは要塞司令官としての地位に固持し、スミルノフにその地位を明渡さなかった為、旅順要塞内では二人の司令官が常駐すると云う奇妙な状況が発生した。
日露戦争では、日本軍第3軍により旅順要塞攻撃が開始されると籠城戦を展開、要塞築城・戦術の専門家であった部下の(正確にはスミルノフ中将の部下)ロマン・コンドラチェンコ少将を支持すると共に防衛計画をほぼ一任し、日本軍に甚大な損害を与える。(旅順攻囲戦)12月に203高地を奪われ、東鶏冠山・ニ龍山・松樹山の正面防御要塞が次々陥落、頼りにしていたコンドラチェンコが一連の戦闘で戦死すると、余剰兵力を温存したままで降伏開城する。
日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われ、1908年2月、軍法会議で死刑宣告を受けるが、1909年4月、特赦により禁固10年に減刑される。(減刑に関しては乃木大将が助命運動を行ったのが最大の理由とされている)釈放後は軍を追放され、モスクワ市民として静かな余生を送った。
[編集] 評価
日本に於いては文部省唱歌『水師営の会見』等で難攻不落の旅順要塞をよく守り、乃木大将の好敵手として日本軍を苦しめたロシア陸軍随一の名将と高く評価されている。
しかしながら先述の様にロシア側からはプライドが高い上に縄張り意識が強く、全ての作戦指揮が杓子定規で融通性に欠け、決断力や想像力に乏しい典型的な『官僚』軍人であり、部下将兵に対して規律と服従を重んじる割には厳しい対応をする傾向があり、部下将兵からは毛嫌いされていた。ロシアでは『凡将』あるいは『愚将』としての評価が多く、今日に於いてもロシアでの評価は著しく低い。日本側とロシア側とで相反する評価を受けている。
一方で、築城技術・要塞篭城戦の専門家であり、優れた野戦指揮官であったコンドラチェンコ少将を信頼し作戦計画をほぼ一任した上、作戦計画に一切口出ししなかった結果、長期間日本軍を引き付け多大な犠牲を強いた事は事実であり、日本軍の作戦に大きな支障を与えた事は評価出来るといえる。規律を重んじ、軍規を乱した者に対しては厳罰を持って処したので、旅順要塞内でのロシア軍の規律は高かったと云う。また水師営の会見に於いて乃木大将の二人の子息の戦死に対して弔意を述べ、乃木大将から帯剣のままでの降伏調印と云う礼節を受けた事に付いて深く陳謝を述べた上でお互いの健闘を称えあった事実を考慮するに、一流の騎士道精神を重んじた軍人であったと思われる。
若し旅順要塞司令官がステッセルでは無く、他の作戦能力に優れた人物が指揮していたならば(先述のスミルノフ中将・コンドラチェンコ少将のコンビは要塞築城・防衛戦術の専門家であり、旅順要塞防衛の指揮官として最適任であった)、日本軍は旅順攻撃の為に更なる犠牲を強いられ、旅順要塞攻略とアレクセイ・クロパトキン極東軍との苦しい二方面作戦を展開せざるを得ず、後の戦局の展開が変わっていたであろうとする軍事史研究家の指摘も多い。
[編集] 恐妻家
気の強い性格のヴェーラ夫人には生涯頭が上がらなかったと云われている。美男子の将兵(コンドラチェンコもその1人だったと云われている)に対してあからざまに誘惑する夫人の行動に何も言えず、幕僚達に「妻の行動に不義があればどうか止めて欲しい」と常に頼んでいたと云う話が残っている。
[編集] 伝説 ステッセルのピアノ
ステッセルのピアノにまつわる話が各地に残されている。その一つは、ヴェーラ夫人が旅順の要塞で弾いたとされるピアノで、石川県の金沢学院大学に保存されている。旅順陥落の時に、ステッセル中将から乃木大将に贈呈され、それを旅順で最大の戦死者を出した金沢第九師団に譲られたと伝わっている。