アフガニスタン内戦
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アフガニスタン内戦(アフガニスタンないせん)は、アフガニスタンで発生した内戦。
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アフガニスタンは1979年12月からソビエト連邦による軍事侵攻を受けたが(詳細)、1988年4月の米・ソ・アフガン・パキスタン四国和平協定によって停戦となり、1989年2月までに全てのソ連軍が撤退した。しかし10年に及ぶ対ソ連戦争で秩序が完全に解体されたアフガンでは、覇権をめぐってそれまで共同でソ連と戦った多くの派閥が挙兵、互いに争う戦国時代となった。ラッバーニー率いるタジク人主体のイスラム協会、ドスタム率いるウズベク人主体のイスラム民族運動、ヘクマティヤール率いるパシュトゥーン人主体のイスラム党、ハザラ人主体のシーア派勢力イスラム統一党などが、有力な派閥であった。第一次内戦は1992年4月に派閥間の和平がなって終結し、1993年3月には和平文書が調印された。
しかし、翌1994年1月には和平が砕かれ再燃、大規模な軍事衝突となった。この第二次内戦によって台頭したのは、イスラム原理主義勢力のターリバーンであった。当初のターリバーンはゲリラグループであったが、友好的なパキスタンから多大な援助を受け、パシュトゥーン人地域をほぼ勢力化に置き、1996年9月に圧倒的な軍事力でカーブルに入城、これを征圧した。ターリバーンはアフガニスタン・イスラム国の成立を宣言、支配地域にクルアーンに基づいた厳正なイスラム法を公布した。当初、市民からは秩序の回復として歓迎されたが、欧米的な娯楽の廃止や犯罪者の公開処刑を行ったため、先進国からは行き過ぎた人権蹂躙だとして非難を受けた。また2001年3月のバーミヤン石仏爆破は偶像を禁止するイスラムに忠実であったが、貴重な文化遺産の破壊はイスラム国からも非難を受けた。一方、北部のキルギス・タジキスタン国境に追い詰められた少数民族グループは北部同盟を結成し、わずかな地域を拠点に反攻を続け、ターリバーンはこれを攻略できずに戦線は膠着したが、2001年9月初に北部同盟を率いたマスード将軍の暗殺に成功、同盟には大きな損失となった。
この体制を破ったのはアメリカだった。この年9月11日の同時多発テロの報復として、米軍は10月7日からターリバーン支配地域の空爆を開始、これに続いて北部同盟が反攻してカブールを奪還、最後の拠点カンダハルを攻略してターリバーン政権は消滅した(詳細)。12月には暫定政権が発足し、翌2002年6月にはハーミド・カルザイが主体となった移行政府が成立、2004年に選挙による政府が発足、カルザイが大統領となって国家統一が果たされた。全国でターリバーン残党など反カルザイ勢力によるテロが発生しているが、カルザイは各派閥の武装解除をおおむね順調に進めている。
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