ターリバーン
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ターリバーン (طالبان Tālibān) は、2001年11月頃までアフガニスタンを実効支配していたイスラム主義政権。アメリカのアフガニスタン侵攻(2001年)により壊滅的な打撃を受け、政権の座を失った。日本ではタリバンまたはタリバーンと表記されることが多い。国号は「アフガニスタン・イスラーム首長国」と称した。
ターリバーンの最高指導者はムハンマド・オマル。ただし、同師は2001年以降、生死不明である。
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[編集] 起源と発展
ターリバーンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年~1988年)後の長年の内戦の中から生まれたパシュトゥーン人を中心とする武装勢力。パキスタンの強力な支援を受けて急激に勢力を拡大、軍閥ヘクマチアル派を破ってその勢力を吸収しカンダハールを当初の拠点とした。
「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(طالب)のパシュトー語における複数形であり、イスラム神学校(マドラサ)で軍事的あるいは神学的に教育・訓練された生徒から構成される。ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」、二人以上なら複数形の「ターリバーン」が用いられる。
ターリバーンは1994年頃から台頭し始め、アフガニスタン統一を願う純粋な学生の運動として受け止められた。内乱時代のムジャヒディン(これには後の北部同盟参加グループも多く含まれる)諸派のモラル無き暴行略奪などに対する反発から当初は市民に歓迎された。1996年9月に首都カブールを制圧し、国連施設に幽閉されていた元大統領のナジブラを引きずりだして公開処刑として惨殺した。その後3年ほどでアフガニスタンの大部分を支配下においた。
[編集] 支配
しかし、ターリバーンの支配はすべての音楽を禁止するなどイスラム原理主義に基づいた厳格なものであった。ターリバーンはパシュトゥーン人の部族掟「パシュトゥーンワリ」に従い、これは実際にはイスラム教とは相容れない部分があるとも言われている。またアルカーイダと接近してからは、その過激原理主義の影響を受け、パシュトゥンワリからも逸脱した、偏狭なイスラーム解釈をアフガーン人に押し付けるようになった。このことにより、アフガニスタン国民からの支持は低下した。
[編集] 政策
ターリバーンは過度に今までの娯楽や文化を否定し、また公開処刑を日常的に行うなど、過激な活動をおこなった。これは市民に対する見せしめであると同時に、娯楽の無い市民を巧妙に操る手口としてのもので、多い時には1万人もの見物客が公開処刑に詰め掛けたといわれる。 また、女性は存在を否定された上、学ぶ事も働く事も禁止され、外出さえも認められなかった(外国人も例外ではなく、女性の国連職員は入国が許可されなかった)。
[編集] 麻薬
アフガニスタンでは、麻薬の原料になるケシの栽培が伝統的に盛んだった。ターリバーンは、1997年終盤に、ケシ栽培を禁止したものの、効力を得ず。2000年までには、アフガニスタン産のケシは、世界の75%に達している。2000年7月27日に再び、ケシ栽培禁止の法令を出し、国連の調査によれば、ナンガルハル州では、12,600エイカーあったケシ畑が、タリバンによって破壊され、17エイカー(以前の0.14%)にまで減少するなどした。 [1]
こうした幾度かの禁止令にも関わらず、ターリバーンは実際にはアヘン栽培を奨励したものと考えられている(イスラム教において麻薬は禁止されている)。2001年の国連麻薬取り締まり計画や1999年のウズベキスタンやタジキスタンの報告によれば、ターリバーンの支配地域が広がるにつれ周辺諸国への密輸量は跳ね上がり、隣国のパキスタンでは79年に皆無だった麻薬中毒者が99年には500万人に達した。イランでは同時期120万人のアヘン中毒患者が報告された。国際的な非難が相次ぐ中、ターリバーンは、麻薬使用を死刑にするなど、麻薬を取り締まるかのような姿勢を見せた。生産地などでもケシ栽培を取り締まり、ヘロインはターリバーンが支配するただひとつの工場のみで生産されていた。
その一方で、ケシ栽培の削減開始後もターリバーンは2,800トンに上るアヘン在庫を維持し、出荷を停止することはなかった。
これらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実際には当時供給過剰により下落傾向を見せていた阿片相場に歯止めを掛けるための出荷停止措置と考えられる。[2]
こうした価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、GDPの50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である。 [3] [4]
[編集] パキスタンとの関連
ターリバーンは、軍事面および資金面でパキスタン軍の諜報機関であるISI(統合情報局)の支援を受けていた。
パキスタンとしてはアフガニスタンに自国の傀儡政権とも言うべきターリバーンを作らせておき、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占したかった。またインドとのカシミール紛争でイスラム原理主義過激派を投入しており、それがパキスタン国内にいたとなると国際社会から「テロ支援国家」と非難される恐れがあった。ターリバーンの支配下にイスラム原理主義過激派を匿いたいという目論みもあって、パキスタンはターリバーンを支持した。また、インドと軍事的に対決するに当たって後背のアフガニスタンに親パキスタン政権が建設される事は、パキスタンにとっては極めて重要な関心事項であった。
殊に、1997年にターリバーン軍がマザリシャリフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。
ターリバーンの出現は、中央アジアの戦略的地帯の安定化につながるとして、アメリカの支持を得ていた時期もあった。当時のアメリカは中央アジアの石油をアフガニスタンのパイプライン経由で輸送することをもくろんでいた。
[編集] 挫折と復権
ターリバーンとアメリカの蜜月は、ターリバーンがアルカーイダを客人として自国内に滞在することを許したことで終わった。 アルカーイダは、それまで引き起こされていた数々のイスラーム過激派テロの黒幕と推定されており、アメリカはターリバーン政権にアルカーイダを引き渡すように圧力をし、経済制裁をかけた。
経済的に窮地に追い込まれたターリバーン政権は、国際社会の注目を集めるため、偶像破壊を名目にバーミヤンの大仏を破壊した。しかし、この行為はむしろ逆効果であった。
ターリバーンはこの後、国際的に孤立を深めていき、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降は、このテロの首謀者とアメリカが断定するアルカーイダをかくまうターリバーンは、アルカーイダ同様にアメリカに敵対する勢力とされ、アメリカによるアフガニスタン侵攻をうけることとなった。
しかしながら、ムハンマド・オマルをはじめとする指導部の多くを失うことなく地に潜ったターリバーンはアフガニスタン南部及びパキスタンのトライバルエリアを根拠地に勢力を回復し、2006年中には南部四州で都市部以外の支配権を獲得するに至ったと言われる。
これにはパキスタンの原理主義勢力、及びその背後のISIが深く関与していると見る向きが強く、同年末にはハミド・カルザイがパキスタンを名指しで非難する事態に至った。
国際部隊の治安活動もあり主要都市の陥落などの危機的状況には陥っていないが、国際部隊の展開地域等でケシ栽培を禁じられた農民の間には、治安の混乱と経済的苦境からターリバーン復活待望論が広まっている。
また、再起したターリバーンは自爆テロや市街地での無差別テロなどイラク式の戦術を多用する傾向が顕著になり、アルカーイダとの一体化の進行が指摘されている。
[編集] ターリバーン幹部
2001年当時の主なターリバーン政権の幹部を下記する。
元首
- 首長-ムッラー・ムハンマド・オマル
内閣
1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造
- 首相(統治評議会議長)-ムハンマド・ラッバーニー
- 副首相(副議長)-アブドゥル・カビル
- 副首相(副議長)-ムハンマド・ハサン・アコンド
- 外相-アブドゥル・ワキル・ムタワッキル
- 内相-アブドル・ラザン・アコンド
- 蔵相-アブドル・ワサイ・アガジャン・モタセム
- 文相-ハン・ムッタキー
- 国防相-ムッラー・ハッジ・ウバイドゥッラー・アフンド
- 航空相・観光相-アクタル・モハマド・マンスール
- 通信相・労相-アフマドラ・モティ
- 厚相-ムラー・モハンマド・アッバース・アフンド
- 司法相-ヌルッディン・トラビ
- 軽工業相・食糧相-ハムドラ・ザヘド
- 鉱工業相-モハマド・イサ・アクンド
- 農相・動物管理相-アブドル・ラティフ・マンスール
- 巡礼寄進相-サイド・ギアスディン・アガ
- 計画相-サドディン・サイド
- 貿易相-アブドル・ラザク
- 難民相-アブドル・ラキブ
- 国境相-ジャラロディン・ハッカニ
- 兵站相-ヤル・モハマド
- 保安相-モハマド・ファゼル
- 高等教育相-カリ・ディン・モハマド
[編集] 関連項目
[編集] 参考サイト
[編集] 出典
- ^ Afghanistan, Opium and the Taliban
- ^ アフガニスタンの歴史 マーティン・ユアンズ著(明石書店)
- ^ 「追跡 ヘロイン・コネクション」BS世界のドキュメンタリー、2/21, 2007 (原題: 「Afghanistan;The Heroin Connection」Ampersand(フランス) 2006年)
- ^ Afghanistan: Addicted To Heroin
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