パシュトゥーン人
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パシュトゥーン人(Pashtūn)は、アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族。パフトゥーン(Pakhtun)、パターン(Pathan)、アフガン(アフガーン (Afghān))など様々な名で知られ、アフガニスタン(アフガーニスターン (Afghānistān))とは、ペルシア語・ダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」という意味である。
アフガニスタンの中部・南部およびパキスタン北西部の北西辺境州・辺境部族自治区に各1千数百万人が居住し、アフガニスタン人口の45%とパキスタン人口の11%を占める。民族の居住地域が大きく分散していないのにも関わらず、2つの国家に分割されているのは、19世紀当時にアフガン戦争によってこの地域を支配下に置いていたイギリスが、保護国アフガニスタンと植民地インドとの境界を民族分布を考慮せずに引いたためである。
インド・ヨーロッパ語族イラン語派のパシュトー語を話し、多くの部族集団に分かれて伝統的には山岳地帯で遊牧などを行って暮らしてきた。強固な部族の紐帯を維持しており、パシュトゥーンワリと呼ばれる慣習法を持ち、男子は誇りを重んずる。部族の中では、カンダハール、ヘラート、ファラー州に居住するドゥッラーニー部族連合とガズニー州等に居住するギルザイ部族連合の2大部族が有力である。
10世紀頃にイスラム教を受け入れ、のちにイランのサファヴィー朝やインドのムガル帝国の支配を受けた。その一派は18世紀初頭にサファヴィー朝に対して反乱を起こし、1722年に首都イスファハーンを陥落させるが、アフシャール朝のナーディル・シャーに敗れた。
ナーディル・シャーの死後、彼に従っていたドゥッラーニー族のパシュトゥーン人アフマド・シャー・アブダーリーはカンダハールでアフシャール朝から自立し、アフガニスタン国家の起源となるドゥッラーニー朝を建国する。
ドゥッラーニー族が支配するアフガニスタンでは、パシュトゥーン人部族の有力者(貴族)が国家のあらゆる側面で力を持ち、国家を支配してきた。1978年の社会主義クーデターとそれに続くアフガニスタン内戦はパシュトゥーン人の支配力を減少させたが、依然として同国最大の民族集団であり、20世紀末期に権力を握ったターリバーンはパシュトゥーン人を支持基盤としていた。
ターリバーン政権崩壊後のアフガニスタンの指導者となったハーミド・カルザイもまたパシュトゥーン人である。
[編集] パキスタン国内のパシュトゥーン人
1893年の国境線(デュランド・ライン)の画定に伴い、パシュトゥーン人の居住地域は、アフガニスタンと現在のパキスタン北西部に分かれることとなった。現在、パシュトゥーン人は、パキスタン人口の11%を占めている。
パシュトゥーン人は、M.アイユーブ・ハーン大統領、グラム・イスハク・ハーン大統領等、多くの政治家を輩出しており、ビジネス界にも進出している。90年代初めのデータによれば、軍将校の20%、警察幹部の16%、高級官僚の10%以上がパシュトゥーン人だった。
パシュトゥーン人政党としては、人民国家党(アバミ・ネイシェネル・パルタ)が存在する。同党や北西部州の一部の活動家の中には、統一パシュトゥーン人州(パシュトゥーンフバ・スバ)の創設を主張する者もいるが、多くのパシュトゥーン人は、補助金や特権の喪失を恐れて、これに賛同していない。