イオン・アントネスク
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イオン・アントネスク(Ion Victor Antonescu, 1882年6月14日 - 1946年6月1日)は20世紀前半のルーマニアの軍人・政治家。元帥。
ワラキア地方出身。父は大地主で、大尉だった。フランスで軍事教育を受ける。1907年の農民蜂起の鎮圧に参加。1913年のバルカン戦争時、騎兵師団参謀部作戦課長。1914年、騎兵学校の中隊長。第一次世界大戦と戦後のハンガリー・ソビエト共和国に対する軍事干渉に参加。
1923年から駐パリ駐在武官となりユダヤ系フランス人と結婚する。1926年から駐ロンドン駐在武官。1926年にルーマニア王立騎兵学校長、1927年と1931年に高等軍事学校長を務め、連隊長、旅団長等を経た後、1933年に参謀総長となり、ルーマニア王立軍の近代化を計る。1934年から師団長。しかし鉄衛団と関係を持ったため、1937年に投獄される。釈放後、国防相となりソビエト連邦への自国領土の割譲に反対してカロル2世と対立し、再び投獄される。1940年には釈放され、首相に就任。国民投票の末、国家指導者という名前の地位に就き、枢軸外交を推進した。
鉄衛団が政権当初の支持基盤ではあったが、彼らの行き過ぎたテロルを警戒し、次第に距離を置くようになった。ドイツの支持を得ていると考えていた鉄衛団は、1941年1月20日に反乱を起こしたが、ヒトラーはアントネスクを支持し、反乱は22日に鎮圧された。
独ソ戦が始まると枢軸国側に立ち、ルーマニア軍のオデッサ侵攻、スターリングラード、カフカス侵攻を指揮した。1944年8月23日の宮廷政変で失脚し、戦後戦犯として処刑された。
余談ではあるが彼は一人称を使わなかった。また、ドイツ側の要求により約4万人のユダヤ人をドイツに送り出している。
1990年、名誉回復。