エルス・カレンズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エルス・カレンズ |
|
---|---|
基本情報 |
|
英語名 | Els Callens |
国籍 | ベルギー |
出身地 | 同・アントワープ |
生年月日 | 1970年8月20日 |
身長 | 178cm |
体重 | 60kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
|
デビュー年 | 1990年 |
引退年 | 2005年 |
ツアー通算 | 10勝 |
シングルス | 0勝 |
ダブルス | 10勝 |
生涯通算成績 | 666勝528敗 |
シングルス | 358勝309敗 |
ダブルス | 308勝219敗 |
4大大会最高成績 |
|
全豪 | 3回戦(2000) |
全仏 | 2回戦(1995・98-2000) |
全英 | 3回戦(2002) |
全米 | 3回戦(1996) |
キャリア自己最高ランキング |
|
シングルス | 43位 |
ダブルス | 12位 |
Template |
女子 テニス | ||
銅 | 2000 | ダブルス |
エルス・カレンズ(Els Callens, 1970年8月20日 - )は、ベルギー・アントワープ出身の元女子プロテニス選手。2000年のシドニー五輪女子ダブルスで、ドミニク・ファン・ルーストとペアを組んで銅メダルを獲得した選手である。自己最高ランキングはシングルス43位、ダブルス12位。WTAツアーでシングルスの優勝はなかったが、ダブルスで10勝を挙げた。4大大会でも、シングルスは3回戦止まりの成績だったが、2000年全米オープンの女子ダブルスでベスト4進出がある。
1990年にプロ入り。カレンズは長い間、女子プロテニス界では地味な存在の選手だった。1991年ウィンブルドンで予選を勝ち上がり、本戦2回戦に進出したが、その次の4大大会シングルス本戦出場は1995年の全豪オープンである。1995年のカレンズは、全仏オープン2回戦で長塚京子に敗れたり、全米オープン1回戦で雉子牟田直子に敗れるなど、日本人女子選手との対戦が多かった。1997年と1998年の2年連続で、カレンズはウィンブルドンの女子ダブルス準々決勝に進出する。1997年はジンジャー・ニールセン(アメリカ)とペアを組み、1998年はジュリー・アラール・デキュジスと組んだ。全仏オープンの女子ダブルスでは、1999年にリタ・グランデと組んでベスト8に入ったが、準々決勝でヴィーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹組に敗れている。
エルス・カレンズは2000年、30歳にして世界的な知名度を得た。この年、彼女はドミニク・ファン・ルーストとのペアで全米オープンの女子ダブルス準決勝に進出し、続いて行われたシドニー五輪で女子ダブルスの銅メダルを獲得した。全米オープンの準決勝では、カレンズとファン・ルーストは杉山愛&ジュリー・アラール・デキュジス組に 5-7, 1-6 で敗れている。シドニー五輪では、2人は準決勝でウィリアムズ姉妹組に 4-6, 1-6 で敗れた後、準決勝敗退の2組による「銅メダル決定戦」でベラルーシ代表のナターシャ・ズベレワ&オルガ・バラバンシコワ組を 4-6, 6-4, 6-1 の逆転で破り、ベルギー代表の2人が銅メダルの表彰台に立った。これはベルギーの選手がオリンピックテニス競技で獲得した最初のメダルである。
この偉業達成の後、カレンズは女子ツアーのダブルスで6つのタイトルを加えた。2000年までに獲得した彼女のダブルス・タイトルは4つであったが、それを上回るペースになる。一緒に優勝したダブルス・パートナーの中には、2002年6月にイギリス・バーミンガム大会で組んだ浅越しのぶもいた。2002年は日本の「東レ・パン・パシフィック・テニス」のダブルスで、ロベルタ・ビンチ(イタリア)とペアを組んだ準優勝もある。最後はジンバブエのカーラ・ブラックとペアを組み、故郷の大会であるベルギー・アントワープの「プロキシマス・ダイヤモンド・ゲームズ」でダブルス2連覇を達成した。
遅咲きのダブルス選手であったエルス・カレンズは、2005年10月のベルギー・ハッセルト大会を最後に35歳で現役を引退した。最後の大会では、カレンズは後輩選手のキム・クライシュテルスとペアを組み、準決勝でミカエラ・クライチェク(オランダ)&アグネス・スウェイ(ハンガリー)組に 6-7, 6-4, 5-7 で敗れている。カレンズは女子テニス国別対抗戦・フェドカップでも、1994年から現役引退する2005年までベルギー代表選手を務め、ダブルスで「17勝6敗」のチーム最多記録を残した。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
カテゴリ: ベルギーのテニス選手 | 1970年生