エレナ・デメンティエワ
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エレナ・デメンティエワ |
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基本情報 |
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英語名 | Elena Dementieva |
フルネーム | Elena Vyacheslavovna Dementieva |
国籍 | ![]() |
出身地 | 同・モスクワ |
生年月日 | 1981年10月15日 |
身長 | 180cm |
体重 | 64kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1998年 |
ツアー通算 | 12勝 |
シングルス | 6勝 |
ダブルス | 6勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | 4回戦 |
全仏 | 準優勝(2004) |
全英 | ベスト8(2006) |
全米 | 準優勝(2004) |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 4位 |
ダブルス | 5位 |
Template |
女子 テニス | ||
銀 | 2000 | シングルス |
エレナ・デメンティエワ(Elena Dementieva, Еле́на Вячесла́вовна Деме́нтьева, 1981年10月15日 - )は、ロシア・モスクワ市出身の女子プロテニス選手。現在躍進が著しいロシア女子テニス界において、先輩としてその基礎を据えた選手のひとりである。強靭で粘り強いフットワークが最大の特徴。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス5位。これまでにWTAツアーでシングルス6勝、ダブルス6勝を挙げている。
モスクワ市内にある名門クラブ「スパルタクラブ」で、アンナ・クルニコワやアナスタシア・ミスキナと幼なじみだった(3人とも同じ年である)。1998年8月にプロ転向。1999年より女子国別対抗戦・フェドカップのロシア代表選手になる。2000年夏から頭角を現し、全米オープンで初のベスト4に進出する。シドニー五輪で銀メダルを獲得した時は、決勝でヴィーナス・ウィリアムズに 2-6, 4-6 で敗れた。
その後しばらく足踏みを続けたが、2003年4月に宿願のWTAツアー初優勝を果たす。2003年のウィンブルドンでは、同じロシアのリナ・クラスノルツカヤとペアを組んだ女子ダブルスで活躍した。2人のペアは3回戦でヴィーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹ペアを破り、第1シードのビルヒニア・ルアノパスカル&パオラ・スアレス組との準決勝まで進出した。
2004年、デメンティエワは全仏オープンと全米オープンの2大会で準優勝した。どちらも「ロシア対決」の決勝戦になったが、前者はアナスタシア・ミスキナに 1-6, 2-6 で敗れ、後者はスベトラナ・クズネツォワに 3-6, 5-7 で敗れている。2005年は全米オープンの女子ダブルスで、フラビア・ペネッタ(イタリア)とペアを組んだ準優勝がある。デメンティエワは2004年・2005年とフェドカップのロシア・チーム2連覇に貢献した。
2006年2月5日、デメンティエワは日本の「東レ・パン・パシフィック・テニス」決勝戦で、当年度から現役復帰を果たした元世界ランキング1位のマルチナ・ヒンギスを 6-2, 6-0 で破って初優勝した。2002年10月にヒンギスはドイツ・フィルダーシュタットの「ポルシェ・グランプリ」2回戦敗退を最後にテニス界から退いたが、その時の対戦相手がこのデメンティエワであった。(当時のスコア:デメンティエワの 6-3, 6-1)ヒンギスは前日のマリア・シャラポワ戦で快勝した時のようなプレーが全くできなかった。この年の4大大会では、ウィンブルドンで初めてのベスト8進出があった。それまでのデメンティエワは、ウィンブルドンでは2002年・2003年・2005年と3度の4回戦進出が最高成績であった。準々決勝ではウィンブルドンを得意とするマリア・シャラポワに敗れている。8月第2週に「ロサンゼルス・マスターズ」大会で優勝し、今季2勝目を挙げる。決勝戦ではセルビアのエレナ・ヤンコビッチに 6-3, 4-6, 6-4 で競り勝った。
デメンティエワはプロ転向後、リンゼイ・ダベンポートとの対戦機会が非常に多い。本人はマルチナ・ヒンギスの頭脳プレーを理想像に描いているという。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- エレナ・デメンティエワ - WTAツアーのプロフィール(英語)