オノレ・ド・バルザック
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オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac,1799年5月20日-1850年8月18日)は、フランスの小説家。
S.モームは、バルザックを「確実に天才とよぶにふさわしい人物」と自著の『世界の十大小説』のなかで述べている。バルザックは、90篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』を執筆。写実的小説で、19世紀ロシア小説(ドストエフスキー、レフ・トルストイ)のさきがけとなった。『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトル・ユーゴーの親友でもあった。オノレ・ド・バルザックの「ド」は貴族を気取った自称。
バルザックは、トゥールで生まれた。かれの人生は、幼少時代からあまり母親に愛されず、寄宿学校に入れられ孤独な少年時代(1807-1813)を送っていた。その6年の間に母親がかれに面会したのは、わずか2度だけだった。母親からの愛の欠乏と、かれの人生の女性遍歴の多さは、関連づけられて言及されることが多い。
バルザックの母親アンヌ=シャルロット=ロールは、特筆すべき人物の一人である。非常に神経質な人物でかつ神秘主義者(宗教家サン=マルタン、エマヌエル・スヴェーデンボリらの神秘思想に傾倒)だった。その神秘主義への傾倒は、バルザックに受け継がれ、かれに多大な影響を与えた。なお、自分の母親についてバルザックは、「おれを滅茶苦茶にしたのはお袋の奴だ」と終始主張していたが、その真偽は定かではない。バルザックは最初、両親の希望で公証人になることを志したが、かなわなかった。
バルザックは、小説を書くとき、まずコーヒーを牛飲し、おもに夜間に長時間にわたって執筆した。何回も推敲を繰り返した。執筆が終わると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した。
小説を書いているとき以外は、社交界でご馳走をたくさん食べているか、知人と楽しく過ごしているかのいずれかであった。もはや伝説であるが、バルザックの多食・大食いは(糖尿病が原因と思われる)、晩年の失明、死に至る腹膜炎を引き起こしたと思われる。借金も豪放、食事も豪胆であった。事業の失敗、贅沢な生活によりバルザックがつくった莫大な借金は、ついにバルザック自身により清算されることはなく、晩年に結婚した大貴族の未亡人ハンスカ夫人の巨額の財産によって清算された。
バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と、同時に人間の精神の内部を精密に描くというところにある。聖人君子的な高潔な善人が小説のなかに出てくるが、かれらは偽善的な社会のなかで苦悩のうちに死んでいく(『ゴリオ爺さん』、『谷間のゆり』など)。創作の天才で、どれだけたくさんの本を書いてもアイデアが尽きることがなかった。社会のあらゆる人物、場面を描くことによって、フランス社会史を成す『人間喜劇』を構想したが、未完におわった。
目次 |
[編集] 主な作品
- 1831年 『ルイ・ランベール』『ツールの司祭』
- 1833年 『ウージェニー・グランデ』
- 1834年 『"絶対"の探求』『ゴリオ爺さん』(-35)
- 1835年 『谷間のゆり』
- 1846年 『従妹ベット』
- 1847年 『従兄ポンス』
[編集] バルザックと交際した貴族女性達
バルザックは、華やかな女性遍歴を繰り広げたが、その多くは年上の貴族女性であり、正式に結婚したのは最晩年のハンスカ夫人のみである。
- ベルニー夫人(バルザックが自分の母親の如く最も愛した女性。『谷間のゆり』の主人公モルソフ伯爵夫人のモデルとなった)。
- ダブランテス公爵夫人
- カストリ侯爵夫人
- ハンスカ夫人(晩年にバルザックと結婚)
- ギトボニ=ヴィスコンチ伯爵夫人
[編集] 名言
- 「あらゆる人智の内で、結婚に関する研究が最も遅れている。」
- 「もしジャーナリズムが存在しないなら、間違ってもこれを発明してはならない。」
[編集] 外部リンク
- バルザック文芸博物館オフィシャルサイト。(バルザック博物館/日本語)
- バルザックホームページ。(日本バルザック研究会)
- 伝記。 書誌学。(フランス語)
- ざくろ屋敷 バルザック『人間喜劇』より。(映像作品)