ヴィクトル・ユーゴー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo, 1802年2月26日 - 1885年5月22日)はフランスロマン主義の詩人、小説家。七月王政時代からフランス第二共和政時代の政治家。発音としてはヴィクトール・ユゴー。
目次 |
[編集] 人生
[編集] 概略
一言でまとめるならば、『波乱に富んだ人生』である。作家としては大成功をおさめ、彼の名前と作品は名声と感動とともに今日まで残っている。しかし、政治家としての彼は逆境の連続であり、さらに幼少の頃から家庭生活はずっと不幸の連続であった。
[編集] 出生から青年期まで
共和党員でナポレオン軍の軍人ジョゼフ・レオポルド・シジスベール・ユーゴー(Joseph Léopold Sigisbert Hugo)とソフィ・トレビュシェ(Sophie Trébuchet)の三男として、フランス東部のブザンソンで誕生。アベル・ジョセフ(Abel Joseph,1798年11月15日–1855年)とユージェーヌ(Eugène, 1800年9月16日–1837年3月5日)という二人の兄がいる。
生まれたときは小柄でひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目にマルセイユへ転居。以降、コルシカ島のバスティア(Bastia)、エルバ島のポルト・フェルラジョ(Portoferraio)、パリ、ナポリ、マドリード、と、主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを点々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポルドと根っからの王党派の母ソフィの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのだ。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とジルノルマン氏の確執の原型となる。いずれにせよ、生まれたときの状態や長きにわたる父親不在の生活のおかげで、母親への愛情が非常に強かった。
1812年、母と次兄ユージェーヌと一緒に再びパリに帰る(この時は長兄アベル・ジョセフは父とともにナポレオン軍の軍人となるためマドリードに残ったが、同年9月には母のもとに戻っている)。1814年、次兄ユージェーヌとともにサン・ジェルマン・デ・プレ教会(Eglise St Germain des Pres)の近くの寄宿学校に入る。その間にナポレオンによる帝政が完全に終わりを告げ、父ジョセフ・レオポルドはスペイン貴族の地位を剥奪され、フランス軍のいち大隊長に没落してしまう。彼は寄宿学校に4年とどまるものの、最後の2年はルイ・ル・グラン高等中学(Lycee Louis le Grand) にも通った。1816年7月10日、彼は詩帳にこんな言葉を残している。
――シャトーブリアンになるのでなければ、何にもなりたくない。
1819年2月、トゥールーズのアカデミー・デ・ジュー・フロロー(Académie des Jeux floraux)のコンクールに詩が2編入賞する。5月には、詩1編がアカデミー賞(Académie Français)に輝く。12月には『コンセルヴァトゥール・リテレール誌(le Conservateur littéraire)』を創刊、1821年3月まで月2回のペースで発行していた。1820年3月9日、『ペリー公爵の死についてのオード』でルイ18世から下賜金を受け、ビッグ・ジャルガルを『コンセルヴァトゥール・リテレール誌』に掲載する(1826年に刊行)。
母ソフィはヴィクトルの才能を認め、文学での成功を期待していたが、幼馴染であり恋人であったアデール・フーシェ(Adèle Foucher)との結婚には猛反対していた。しかし、彼は18歳のときから始めた文通を翌年に再開する。しかし、その年(=1821年)6月27日に母ソフィが他界し、ユーゴー一家に二度と娘を逢わせないと誓っていたアデールの両親も、彼の情熱に折れてしまい、結婚を了承。翌年の1822年8月4日に出版した『オードと雑詠集(Odes et Poésies Diverses)』が当時のフランス国王ルイ18世の目に留まり、国王から年1000フランの年金をもらえるようになる。その結果、同年10月12日、アデールとサン・シュルピス教会(Eglise St Sulpice)で結婚し、ル・シェルシュ・ミディ通り(Rue de Cherche-Midi)に居を構えるに至る。
2月8日に、17世紀末のデンマーク宮廷の陰謀をテーマにした純愛小説『ハン・ディスランド』(Han d'Islande)を匿名で発表し、新雑誌も創刊した1823年7月16日、長男レオポルド(Léopold)が誕生する。すべてが順風満帆に見えたが、同年10月9日にひ弱だったレオポルドが亡くなってしまう。翌年の1824年8月28日に生まれた長女にはレオポルディーヌ(Léopoldine)と命名する。
1825年4月29日、23歳という若さでレジオンドヌール勲章(『シュヴァリエ』(Chevalier, 騎士、勲爵士))を受ける、同年5月29日にはランスで行われたシャルル10世の聖別式にも参加した。こうして少しずつ名誉が与えられてゆくなかで、少年時代は疎遠であった父ジョセフ・レオポルドとの仲も親密になっていった。愛する父のためにこれまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これをきっかけにナポレオンを次第に理解し、尊敬するようになる。さらに、聖別式でウィリアム・シェイクスピアのフランス語訳詩を耳にしたことで、シェイクスピアを尊敬するようになる。
翌年の11月2日には次男シャルル(Charles)が産まれ、創作熱も加速していくが、1828年1月28日、パリで父ジョゼフ・レオポルドが他界。しかし、悲しみにくれる一方で朗報もあった。同年10月31日、父の才能を受け継いだ三男フランソワ・ヴィクトール(François–Victor)が誕生する。
1829年1月に『東方詩集』、2月7日に『死刑囚最後の日』を刊行する一方コメディ・フランセーズ座(Comédie-Française)で上演予定だった『マリオン・ドロルム』が8月13日に上演禁止令を受けてしまう(以降、彼の手がけた戯曲が上演中止に追い込まれるケースがたびたび起こる)。理由は、この作品に登場するルイ13世の境遇が悪すぎて、シャルル10世の非難を買ったからであった。
約2週間後の8月29日から9月24日に『エルナニ』を執筆。10月5日にコメディ・フランセーズ座で上演する運びとなった。古典派の常識を逸脱したこの戯曲はたちまち問題となり、『エルナニ』公演の初日、開幕前からロマン派と古典派のこぜりあいが始まり、幕が上がるとこぜりあいは一気に暴動に転じた。いわゆる『エルナニ合戦』である。これ以降、ユーゴーはロマン派と古典派の戦いに巻き込まれることとなる。
1830年4月、ジャン・グージョン通り(rue Jean Goujon)へ転居する。そこで七月革命の混乱の荒波にもまれる中、次女アデール(Adèle)が誕生する。
[編集] 中年期
この頃になると、妻アデールがサント・ブーヴと恋に落ちてしまい、寂しさに胸を詰まらせていた。31歳になった1833年2月19日の夜、彼は『リュクレス・ボルジャ』に出演していた女優ジュリエット・ドルーエ(Juliette Drouet)の愛人になる。別荘を行き来したり連れ立って旅行に出かけたりするなど、二人の仲は徐々に深くなってゆき、交際が始まって1年が過ぎた1834年、『ロマン主義詩編の最高傑作』との評判名高い『オランピオの悲しみ』を生み出す。
執筆に情熱を燃やし、ジュリエットとの恋愛に溺れる一方で、私生活では悲しい出来事が続いていた。
1836年2月18日と12月29日にはアカデミー・フランセーズに2度も落選し、翌年の1837年3月5日には、妻アデールを愛したがために発狂してしまった次兄ユージェーヌが入院先の療養所で自殺してしまう。7月3日にレジオンドヌール勲章(『オフィシエ』(Officier, 将校))を授与される。その間、戯曲や詩を創作しながら、ブルターニュ、ベルギー、シャンパーニュ、プロヴァンス、と各地を転々と旅する。
もうすぐ38歳になる1840年1月、文芸家協会長となり、少しは光明が見えてきたかと思われた矢先、同年2月20日、アカデミー・フランセーズ3度目の落選。しかし、翌年1841年1月7日にようやくアカデミー・フランセーズの会員に当選する。彼は亡くなるまで、第10代座席次14番を受け持つことになる。
1843年2月15日、あと数日で41歳の誕生日を迎えるユーゴーは、長女レオポルディーヌとシャルル・ヴァクリー(Charles Vacquerie)の結婚を見届ける。しかし、同年9月4日、レオポルディーヌは夫とともにヴィルキエを渡るセーヌ川にて溺死してしまう。その頃、愛人ジュリエットと旅をしていた彼は事故から5日後の9月9日に悲劇を知り、9月12日にパリへ戻った。娘の死からちょうど一年後、ヴェルキエで傑作詩編『ヴェルキエにて』の第一篇を書き終える。
1845年4月13日、ルイ・フィリップより子爵の地位を授けられ、貴族の一員になる。同年11月17日、のちにフランス文学史上屈指の名作といわれるようになる『レ・ミゼラブル』(当時の題名は『レ・ミゼール』)の執筆に取りかかる。貴族になったことで政治活動にも身を置くようになった彼は、翌年の1846年3月19日の貴族院にてポーランドに関する政治演説を行う。
また、政治活動にも身を置き、ナポレオン3世のクーデターに抵抗し、1870年までベルギーに亡命していた。
主要な作品は小説や、膨大な詩である。
[編集] 作品の一覧
- 1822年 - オードと雑詠集(Odes et Poésies Diverses)
- 1823年 - アン・ディスランド(Han d'Islande)
- 1824年 - オード集(Nouvelles Odes)
- 1826年 - ビッグ・ジャルガル(Bug-Jargal)
- 1826年 - オードとバラード集(Odes et Ballades)
- 1827年 - クロムウェル(Cromwell)
- 1829年 - 東方詩集(Les Orientales)
- 1829年 - 死刑囚最後の日(Le Dernier jour d'un condamn)
文学 |
![]() |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
- 1830年 - エルナニ(Hernani)ベルディの歌劇「エルナーニ」原作
- 1831年 - ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)
- 1831年 - マリヨン・ドロルム(Marion Delorme)
- 1831年 - 秋の木の葉(Les Feuilles d'automne)
- 1832年 - 逸楽の王(Le Roi s'amuse) ベルディの歌劇「リゴレット」原作
- 1833年 - リュクレス・ボルジャ(Lucrèce Borgia)
- 1833年 - マリー・チュドール(Marie Tudor)
- 1834年 - ミラボー研究(Étude sur Mirabeau)
- 1834年 - 文学哲学論集(Littérature et philosophie mêlées)
- 1834年 - クロード・クー(Claude Gueux)
- 1835年 - アンジェロ(Angelo)
- 1835年 - たそがれの歌(Les Chants du crépuscule)
- 1837年 - 内心の声(Les Voix intérieures)
- 1838年 - リュイ・ブラース(Ruy Blas)
- 1840年 - 光と影(Les Rayons et les ombres)
- 1842年 - ライン河幻想紀行(Le Rhin)
- 1843年 - ビュルグラーヴ(Les Burgraves)
- 1852年 - 小ナポレオン(Napoléon le Petit)
- 1853年 - 懲罰詩集(Les Châtiments)
- Lettres à Louis Bonaparte(1855)
- 1856年 - 静観詩集 (Les Contemplations) ※『ヴェルキエにて』 (À Villequier)収録
- 1859年 - 諸世紀伝記詩集(La Légende des siècles)
- 1862年 - レ・ミゼラブル(ああ無情 とも)
- 1864年 - ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)
- 1865年 - 街と森の歌(Les Chansons des rues et des bois)
- 1866年 - 海の労働者たち(Les Travailleurs de la Mer)
- Paris-Guide(1867)
- 1869年 - 笑う男(L'Homme qui rit)
- 1872年 - 恐るべき年(L'Année terrible)
- 1874年 - 93年(Quatrevingt-Treize)
- Mes Fils(1874)
- 1875年 - 記録と証言、亡命以前(Actes et paroles - Avant l'exil)
- 1875年 - 記録と証言、亡命中(Actes et paroles - Pendant l'exil)
- 1876年 - 記録と証言、亡命以後(Actes et paroles - Depuis l'exil)
- 1877年 - 諸世紀伝記詩集・第二巻La Légende des Siècles 2e série(1877)
- 1877年 - よいお祖父さんぶり(L'Art d'être grand-père)
- 1877年 - ある犯罪者の物語・第一部(Histoire d'un crime - 1re partie)
- 1878年 - ある犯罪者の物語・第二部(Histoire d'un crime - 2e partie)
- 1878年 - 法王(Le Pape)
- Religions and religion(1880)
- 1880年 - ろば(L'Âne)
- 1881年- 精気の四風(Les Quatres vents de l'esprit)
- 1882年 - トルクマダ(Torquemada)
- 1883年 - 諸世紀伝記詩集・第三巻(La Légende des siècles - Tome III)
- L'Archipel de la Manche(1883)
死後に出版された作品:
- Théâtre en liberté(1886)
- 1886年 - サタンの終末(La fin de Satan)
- Choses vues - 1re série(1887)
- Toute la lyre(1888)
- Alpes et Pyrénées(1890)
- 1891年 - 神(Dieu)
- France et Belgique(1892)
- Toute la lyre - nouvelle série(1893)
- Correspondances - Tome I(1896)
- Correspondances - Tome II(1898)
- Les années funestes(1898)
- Choses vues - 2e série(1900)
- Post-scriptum de ma vie(1901)
- Dernière Gerbe(1902)
- Mille francs de récompense(1934)
- Océan. Tas de pierres(1942)
- Pierres(1951)
[編集] 関連項目
- 黒岩涙香
- エルナニ事件
- コメディ・フランセーズ
- テオフィル・ゴーティエ
- リゴレット
[編集] 外部リンク
- 伝記、書誌学、総括(フランス語)
- ユゴー ヴィクトル:作家別作品リスト(青空文庫)
前任: ネポミュセーヌ・ルメルシエ |
アカデミー・フランセーズ 席次14 |
後任: シャルル・ルコント・ド・リル |
カテゴリ: アカデミー・フランセーズ | フランスの小説家 | 1802年生 | 1885年没