カール・ヴェンドリンガー
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1991 - 1995 |
所属チーム | レイトンハウス, マーチ, ザウバー |
出走回数 | 41 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 14 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1991年日本GP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1995年オーストラリアGP |
カール・ヴェンドリンガー(Karl Wendlinger、1968年12月20日 - )はオーストリア出身の元F1ドライバーである。
目次 |
[編集] 経歴
1988年にオーストリアF3で、1989年にはドイツF3でチャンピオンを獲得。その後、メルセデスジュニアチームで、ミハエル・シューマッハ、ハインツ=ハラルト・フレンツェンとともに英才教育を受け、「メルセデスの若手三羽烏」と称されたが、3人の中でも最も高い評価を得ていたのがこのヴェンドリンガーであった。
[編集] グループC
メルセデスの育成の一環として、グループCカーレースにザウバー・メルセデスC11などに乗り1991年まで参戦。1991年はミハエル・シューマッハと共にNA3.5リッターエンジン車のエースとして参戦するが、テオ・ファビ、デレック・ワーウィック、マーティン・ブランドル操るジャガー・フォード勢に破れる。
[編集] F1
[編集] レイトンハウス(マーチ)時代
1991年の第15戦日本GPで、レイトンハウスからF1デビュー。3羽烏の中では、11戦ベルギーGPでデビューしたシューマッハについで2番目のデビューとなった。しかし、デビュー戦は、スクーデリア・イタリアの2台と共に、ジョーダンのアンドレア・デ・チェザリスのスピンに巻き込まれ、1周リタイヤ。最終戦のオーストラリアGPでも12周目に豪雨に足を取られ、クラッシュ(その後レースが中止となったため、扱い上は完走している)と、チームが下降線を辿っていた時期ということもあって、良い成績は残せなかった。
翌1992年もチームに残留。開幕戦南アフリカGPでの予選7位、第3戦ブラジルGP・第4戦スペインGPでの予選9位、第10戦ドイツGPでの予選10位など何度か速さを垣間見せ、第7戦カナダGPでは、サバイバルレースを生き残って4位入賞。自身初の入賞を記録した。参戦した14戦中、予選成績はチームメイトのポール・ベルモンド、エマヌエル・ナスペッティに13勝1敗と圧倒していた。しかし、この年はスポンサーのレイトンハウスが撤退し、財政難からマシンの戦闘力は前年以上に低下。ボロボロのチーム状態の中で、シーズンを通しては苦戦を強いられ続け、ラスト2戦は前年の自分同様、チームにスポンサーを持ち込んだヤン・ラマースにシートを譲った。
[編集] ザウバー時代
1993年は新鋭チームのザウバーに移籍。この年のマシンC12は、シーズンオフのテストで当時4強の一角であったフェラーリやベネトンを上回る速さを見せており、チームメイトのJ.J.レートとともに活躍が期待された。ヴェンドリンガーは第3戦ヨーロッパGPと第4戦サンマリノGPで予選5位につけるなど、随所で速さを見せ、計4度の入賞。しかし、一方でマシンは信頼性に問題を抱えており、序盤の5戦連続リタイヤをはじめリタイヤは9回を数えた。
1994年もザウバーに残留。開幕戦ブラジルGPで6位入賞、第3戦サンマリノGPでも4位入賞と、順調なシーズンを送っていた。しかしその矢先、第4戦モナコGPにおいて、プラクティス中に大クラッシュ。意識不明の重体に陥り、一時は「2度と意識が戻ることは無い」とまで言われた。直前のサンマリノGPにおいて、ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの12年ぶりとなる死亡事故が発生したばかりということもあり、F1界に大きな衝撃を与えた。
死線を彷徨った末一命は取り留め、翌1995年には復帰。ザウバーチームは、復帰可能か不明だったヴェンドリンガーの為に、シートを空けて待っていたという。しかし、いざシーズンが始まってみると、以前の速さは消えうせており、自身も「どうしてこんなに遅くなってしまったのか分からない」と発言するほどだった。第5戦モナコGPからはジャン=クリストフ・ブイヨンにシートを譲り、終盤戦の第16戦日本GPから復帰を果たすものの、結局この年は6戦の参戦に止まり、翌1996年シーズンはシートを失ってしまう。
[編集] F1引退後
その後はツーリングカーレースやFIA-GT選手権、DTM、グランダムシリーズなどに参戦、FIA-GT選手権では1999年 にチャンピオンに輝いている。
[編集] 評価
ヴェンドリンガーは、三羽烏一の才能を持つとまで評価されていたにもかかわらず、優勝どころか表彰台すらも経験しないまま、F1から退くことを余儀なくされた。事故後急激に精彩を欠いたことから、「命と引き換えに速さを失った」と言われることもある。
事故を惜しむ声は多い。
[編集] F1での戦歴
- 1991年 (レイトンハウスCG911・イルモア) 最高位20位 : ノーポイント
- 1992年 (マーチCG911B・イルモア) 最高位4位 : ランキング12位(3ポイント)
- 1993年 (ザウバーC12・メルセデス) 最高位4位 : ランキング12位(7ポイント)
- 1994年 (ザウバーC13・メルセデス) 最高位4位 : ランキング18位(4ポイント)
- 1995年 (ザウバーC14・フォード) 最高位10位 : ノーポイント
- ベストグリッド : 5位
- 決勝最高位 : 4位