マーチ (F1)
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参戦年度 | 1970 - 1978 , 1981 - 1982 , 1987 - 1992 |
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出走回数 | 197 (マーチ) 30 (レイトンハウス) |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 3 (マーチ) 0 (レイトンハウス) |
通算獲得ポイント | 173.5 (マーチ) 8 (レイトンハウス) |
表彰台(3位以内)回数 | 21 (マーチ) 1 (レイトンハウス) |
ポールポジション | 5 (マーチ) 0 (レイトンハウス) |
ファステストラップ | 7 (マーチ) 0 (レイトンハウス) |
F1デビュー戦 | 1970年南アフリカGP |
初勝利 | 1970年スペインGP |
最終勝利 | 1976年イタリアGP |
最終戦 | 1992年オーストラリアGP |
マーチ(March)はかつてF1に出走していたチームおよびコンストラクターである。チーム名の由来は、チーム設立にかかわった、マックス・モズレー(M)、アラン・リース(AR)、グラハム・コーカー(C)、ロビン・ハード(H)の頭文字をとったものである。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] チーム設立
1969年にF3シャシーの製作を始め、1970年には初のF1用シャシー「701」を前年のチャンピオン、ジャッキー・スチュワートのいるティレルに供給した。(ただし、シーズン終盤には自製シャシーで参戦)
また、チームとしても、STPのスポンサードで、ジョー・シフェール、クリス・エイモンをレギュラーとし、数戦でマリオ・アンドレッティがドライブする体制で参戦開始した。参戦2戦目のスペインGPではスチュワートが早くも優勝を飾るなど、まずまずの戦闘力を見せた。
1971年にも、ロニー・ピーターソンが4回の2位を含む5度の表彰台を獲得するなどの活躍を見せるが、1973年にSTPがスポンサーが去るなど、徐々に戦闘力を失っていく。
1974年にはイタリアの工具メーカーBetaのスポンサードを得るようになると、翌1975年のオーストリアGPではヴィットリオ・ブランビラが優勝を果たす。この優勝は「モンツァ・ゴリラ」と言われたブランビラのキャリア唯一のものとなったが、この時のブランビラは初優勝を果たした喜びのあまり、マシンをスピンさせてしまい、ガードレールにクラッシュした結果、優勝者のマシンとは思えないものになってしまっていたという。
1976年のイタリアGPでピーターソンがマーチの3勝目をもたらすが、これがこのチームの最後の優勝となってしまった。さらに1977年はノーポイントでシーズンを終え、この年のシーズン終了後に、ATSへチームは売却され、モズレーはFOCAの仕事に専念することとなった。同時にF1撤退を表明。
F1撤退後の3年間には、BMWエンジンとともにF2へシャシーを供給した。また、1981年と1982年にはRAMへシャシーを供給するが、特筆すべき成績を記録することはできなかった。
[編集] レイトンハウスとのジョイント
その後、国際F3000へシャシーを供給し、1985年にクリスチャン・ダナー、1986年にイヴァン・カペリ、1987年にステファノ・モデナと次々にチャンピオンを輩出する。
この勢いを駆り、日本のレイトンハウスをメインスポンサーとして、1987年にはカペリとともに、久しぶりにF1に復帰する。日本のバブル景気と、中嶋悟の参戦によるF1ブームが背景にあったものである。
この年は1カー体制の上復帰初年度ということもあり苦戦。予選では後方に埋もれることが多く、決勝でもモナコグランプリでの6位入賞が唯一の入賞となる。 しかし復帰2年目の1988年は2カー体制になり飛躍の年になる。新進気鋭のデザイナー、エイドリアン・ニューウェイに設計させたマシンを投入し決勝最高位2位、予選最高位3位という好成績を収める。ニューウェイ設計による「881」は、直線ではNA最速をほこり、カペリにより時折光る走りを見せ、ついに日本GPでは1周のみではあったが、ターボ全盛期の中異例とも言える、NA車でのラップリーダー記録という快挙を達成した。その他にも新加入のマウリシオ・グージェルミンも入賞2回(第10戦イギリスGPの4位、第12戦ハンガリーGPの5位)を記録する。
1989年にはレイトンハウスが正式にマーチを買収し、翌1990年からはチーム名を「レイトンハウス」に変更したため、1991年まではコンストラクターとしての「マーチ」の名は姿を消すこととなった。1989年からシャシー名称には「CG」が加えられることとなったが、これはこの年の初めに交通事故死した、カペリのマネージャー、チェザーレ・ガリボルディに弔意を示し、そのイニシャルをとったものである。その新シャシー「CG891」は、ニューウェイが空力を優先した設計によるものであったが、あまりにも「先鋭化」をしてしまったことから過敏なマシン特性と信頼性の問題を抱えることとなった。ニューウェイはマシンの塗装の厚さや、スポンサー名のステッカーの厚さにまで注文を出すほどだったという。その結果、開幕戦でグージェルミンが表彰台に上がった以外は前年の躍進を維持することはできなかった。そして、この年を境にレイトンハウスの成績は下降線を辿ることになる。モナコGPからエアロダイナミクスに考慮してエンジンのバンク角度を75度にした「ジャッドEV」エンジンを投入した。 1990年は前年同様サーキット特製により戦力が大幅に変化するほどエアロダイナミクスに対して非常に敏感な車となってしまい、ブラジルやメキシコのような路面がバンピーなサーキットに対しては車のセッティングがまったく対応出来ずに予選落ちをしてしまったが、路面がフラットなポールリカールサーキットでは風洞実験のデータが一致した事でカペリがタイヤ交換せずにレース終盤までトップを快走し最終的には2位の表彰台に立った。しかしそれ以降のレースは車のエアロダイナミクスに一致したサーキットが無く、非力で信頼性の劣るエンジンに悩まされ続け成績は、一定せず。 1991年にはレーシングエンジンビルダーのイルモアとも提携した。
[編集] チーム消滅
しかしバブル景気の崩壊とともにレイトンハウス本体の業績が悪化。頼みの綱のエイドリアン・ニューウェイも1990年のマシンが不振を極めたことの責任を取るようにチームを去り、シーズン後半にウイリアムズに移籍してしまった。
1991年は、前年後半に改良型マシンを手がけたグスタフ・ブルナーとクリス・マーフィーが製作したが、相変わらず空力に敏感でコンサバティブなシャーシーと新規参入のイルモアエンジンの信頼性不足もあり、低迷し、(ハンガリーGPでの6位入賞のみ)追い撃ちをかけるように1991年9月にはチームオーナーの赤城明氏(レイトンハウス社長)が富士銀行不正融資事件に絡み逮捕され、同年にレイトンハウスはオーナー権を放棄した。シーズン終盤はオーナーが逮捕された事により日本からの資金が途絶えた為にカペリとの契約を解除し、スポンサーを持込んだメルセデスの3羽カラスと言われたカール・ヴェンドリンガーをデビューさせた。
残されたチームは、翌1992年に4年ぶりに「マーチ」へと改称し、ヘンリー・ポーレンバーグが代表になる体制で参戦するものの、メインスポンサーであったレイトンハウスを失い、ポール・ベルモンドとエマニュエーレ・ナスペッティの2人に加え、WSPCや鈴鹿1000kmで活躍し、10年ぶりのFormula 1参戦となるベテラン、ヤン・ラマースの合計3人が小口スポンサー持ち込みで加入したにも関わらず、マシンはチームカラーのライトブルー(レイトンハウス時代には「レイトンブルー」と呼ばれていた)のみが目立つという惨状。この様な状態では戦闘力を云々するレベルではなく、カール・ヴェンドリンガーがカナダGPで得た4位のみが特筆すべきリザルトであった。
この年の資金難から、チーム解散が噂されていたが、翌1993年にもFIAに申請しエントリーを企てる。ドライバーは、前年久しぶりにF1に復帰したヤン・ラマースと前年の国際F3000選手権ランキング5位の新人ジャン・マルク・グーノンと契約する。マシンは、91年に基本設計された、CG911をそのまま使用することを表明した。しかし、いざ開幕してみると、一時はチームを押し上げた日本のバブル景気が崩壊した上に、折からの世界的な不況の中で十分な資金が集まるはずもなく、開幕戦南アフリカグランプリに現れたのは、両ドライバーだけで、チームは現れず。結果そうのままあえなく消滅の憂き目にあうこととなった。